2020.02.09 (Sun)
↑こちらは東京都八王子市の八王子城(城主:北条氏照)入口の近く、元八王子町に鎮座する元八王子八幡神社です。
この八幡神社は、鎌倉幕府御家人の梶原景時が鶴岡八幡宮を勧請したもので、地元では「梶原八幡神社」「梶原八幡宮」または「梶原景時館跡」などと呼ばれています。
また、神社の裏山は天正18年(1590)陰暦6月23日の八王子城合戦では、北条(小田原北条氏)軍の砦として機能したようで「八幡社砦」と呼ばれています。
↑しかし、最近ここが「梶原城」とも呼ばれていることを最近知りました。梶原城と聞くと、梶原景時が築城したように思えますが、どうなんでしょう・・・
↑それはさておき、高尾街道の元八王子三丁目付近から北側には、八幡神社が鎮座する丘が見えます。
中央自動車道を通すために掘削される以前はもう少し高かったようですが、こうして見ると砦、山城と呼んで違和感の無い雰囲気を感じました。
しかし、山城と聞いて堀切や土塁などを期待して訪問すると、ガッカリしてしまうかもしれません(汗)
↑こちらは揺藍社発行、前川實氏の著作「決戦!八王子城〜直江兼続の見た名城の最期と北条氏照〜」ですが、八幡社砦について以下の記述がありました。
八幡社砦(仮称)は、梶原八幡宮の裏山に当たり、中宿大手門を守る砦があった可能性を示唆する「番屋」という地名が残っています。番屋は城門を守る検問所があったところです。
中宿大手門は『別名「御殿谷川(ごてんやがわ)」とも呼ばれる城山川が「くの字」に曲がるあたりに、かつて大手中宿に入る門があったようです』と記載があります。その場所は・・・
八王子城合戦の八幡社砦の部分を「決戦!八王子城」より、以下に整理してみました。
■天正18年(1590)陰暦6月22日午後10時頃、豊臣勢本隊の前田利家、真田昌幸・幸村(信繁)、大道寺政繁、松平康國らの大手攻撃隊は、八王子市四谷から出陣した。
■同時刻、月夜峰の大手脇軍上杉景勝勢と楢原の直江兼続、甲の原(こうのはら)の前田利長、真田信之らの搦め手軍も出陣した。
■横山宿を突破した大手本隊の松平康國軍は、中宿大手門や八幡社砦で反撃を受けたものの、これを打ち破り横地堤大木戸も押し破り、早くも6月23日午前3時頃には山下曲輪へ迫った。
また豊臣軍を迎え撃つ北条軍は、八幡社砦・妙観寺砦・上の山砦をつないだ三角形の中に侵入した敵を一網打尽にする戦略だったと描かれています。
↑地図をスクロールして頂くと、八幡神社との位置関係を把握できます。歩いて直ぐなので、併せて訪問するのも良いかもですね。※妙観寺砦の訪問記は、このリンクから御覧いただけます。
↑こちらは上記の「上の山砦」辺りと思われます。というのも、未だ登ったことがないのですが、北側半分が高速道路で切断されているようです。
という感じで、自分にとって八幡神社の裏山と「城」を結びつけるのは「八王子城合戦」で、梶原景時とは全く結びつきません。
なので「梶原城」と聞いてもピンと来ないのです。しかし、何かの資料には記載があるのかもしれませんね・・・
↑こちらは、御霊明神(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)です。御霊明神も、梶原氏が当地を領有していた鎌倉時代前後に創建したと伝わっています。
↑梶原八幡神社から御霊明神まで、徒歩15分くらいでしょうか。併せて訪問するのも良いかもですね。
↑このページでは、社殿傍に建つ由緒書きから由緒のみ以下に転記しておきます。
八幡神社の由緒
当社は、康平六年八月(1063)源頼義朝臣、鎌倉由比郷に石清水八幡宮の神を奉祀するに始まる。
後治承四年十月(1180)源頼朝公、大庭景義に命じてこれを小林郷松ヶ岡に遷す。(今此処を鶴岡八幡宮と称す)建久二年四月(1191)宮殿の造営全く竣へ、正遷座の際、古神体を頼朝公家臣、梶原平三景時に賜ふ。
此の地は、八王子発祥の地、景時の所領ゆえ、同年六月此処に勧進奉祀す。降って、寛正・文明の頃傷んだ社殿の造営修復す。
元亀三年(1572)北條氏照公、当地に八王子城(日本百名城選)を築き、居住する間社領若干を賜る。
越えて、天正十九年十一月(1591)将軍徳川家康公より社領十石(朱印)を賜り、後明治六年(1873)郷社に列せられる。尚、景時勧進時の棟礼ありしも戦災の折残念ながら消失す。
◎勧請時の棟礼(写)大きさ 縦一尺1寸 横四寸
奉勧請相州鶴岡 当社別当覚正
奉勧請八幡宮 大壇那 梶原平三景時
建久二年辛亥六月十五日大工左衛門五朗
一、御祭神 應神天皇・比売命 御神体 甲冑馬上の木像
一、摂・末社 五社宮、榛名社、八坂社、日吉山王社
一、例祭日 四月第三日曜日
「梶原杉」の由来
当社参道には、梶原杉の大樹あり、景時が八幡宮を勧請した時植えたとされ、樹齢約八百年、高さ三十米余、目通り幹の周囲が十二米あり、昭和三年都の天然記念物に指定され、都内随一の大杉と言われた。
当社御神木として尊崇保存してきたが、樹盛急に衰え、昭和四十七年四月愛惜の中伐採した。現在切り株があり往時が偲ばれる。
※由緒の社号は「八幡神社」で「梶原」は入っていません。梶原八幡神社または梶原八幡宮というのは別称なんでしょうね。
↑社殿西側の雰囲気。裏山は、中央自動車道の建設に伴い大部分が掘削されてしまったようですが、掘削前はそこそこの高さがあったようです。
↑境内西側の神楽殿の脇から・・・
↑裏山の探索に際し宮司さんに許可を申し出ると、快く了承して頂き「気の済むまで見てください」と仰って頂きました。
↑道は直ぐ先で直角に右に曲がっており・・・
↑坂を登って行くと・・・
↑こんな雰囲気なのです。
↑進めそうな場所を探しましたが無理っぽい雰囲気で、早々に撤退しました(汗)
↑ということで、社殿東側へ移動。
↑丘の中腹に、末社が鎮座しているのが見えました。
↑トイレの脇から裏山へ。
↑こちらは末社の榛名神社。
↑榛名神社の右側、日吉山王社。
↑日吉山王社右側から、奥へ進みました。
↑奥へ進むと、車がかなりの速度で疾走する音が聞こえて来ました。
↑行けるところまで行こうと、前進。
↑さらに大きくなる車の疾走音。
↑しかし直ぐに行き止まりで、崖下を車が疾走する音が聞こえました。中央自動車道は見えませんでしたが、そのフェンスと対岸の丘が見えました。
前述した「決戦!八王子城」には『八幡神社の裏山は中央自動車道建設前の山頂はかなり広く、池があった』と記載があります。昔の写真とかあればぜひ見てみたいですね。
↑次は、社殿右(東)側へ坂を下り、中央自動車道を見てみようと思いました。直ぐ先に左へ入れる道があったので…
↑砂利道を道なりに進んで行くと…
↑階段が見えました。
↑階段を上がると、中央自動車道の上に架かるフェンスで囲われた橋がありました。
↑宮の前橋とのこと。
↑こちらは大月・山梨方面。
↑こちらは調布・新宿方面です。
↑橋を渡り終えると、高台の上に墓地が見えました。
↑墓地一番手前は、梶原家の墓所でした。
↑その向かいも…
↑その隣も梶原家の墓所でした。
↑そう言えば、神木梶原杉記念碑にあった社司の御名前も「梶原」でした。社司は代々梶原家が世襲し、この界隈には今も梶原景時の流れを引く方々がお住まいなのかも?と思いました。
↑墓地は、丘の麓まで続いていました。
↑墓地から見た八幡神社の裏山。中央自動車道建設前は、この墓地の丘と繋がっていたわけで、そこそこの高さがあったのではないでしょうか?
切り通しにせず、トンネルにすれば良かったのでは?と思いましたが、掘削する前の調査でおそらく何も出なかったので切り通しにしたのかも?と推測しました。
しかし、ここを「梶原城」と呼ぶのはいかがな物か?「梶原景時居館跡」の方がシックリ来ると思いました(笑)
八王子城趾にも近く、砦ネットワークの1つでもあったようですし、八王子城へ登城される際に寄られてみてはいかがでしょうか。

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