武蔵と相模の史蹟探訪記

東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。

浪士組が集結した傳通院(東京都文京区)探訪記

2023.11.19 (Sun)
伝通院山門
↑東京都文京区に所在する浄土宗の寺院、無量山傳通院寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)を探訪しました。

院号の「傳通院」は徳川家康公の生母、於大の方(おだいのかた)の法名「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」に因むように、傳通院は徳川将軍家菩提所として知られていますね。

※以下「傳通院」と、院号のみに省略させて頂きましたが「伝通院」の表記の方が一般的なのかもしれません。



於大の方の解説板
↑於大の方の墓所のほか、千姫(豊臣秀頼妻・2代徳川秀忠の長女)の墓所など、徳川将軍家菩提所の紹介は、来週11月26日に公開します。



新選組を旅する
↑傳通院を探訪したのは、KKベストセラーズ「新選組を旅する」に以下の記述があったからです。
■庄内郷士 清河八郎の献策により、浪士組(新選組の前身)が組織されたのが、文久3年(1863)1月。
 
■牛込柳町(うしごめ・やなぎちょう)の天然理心流道場試衛館にも浪士募集の情報がもたらされ、近藤勇以下、土方歳三、沖田総司、永倉新八、井上源三郎らがこれに応じた。
   
■文久3年(1863)2月4日、小石川の傳通院に応募者が参集した。
 
■幕府は50人程度とふんでいたが、ごろつきや博徒も混じり300人近い浪士が集まったという。
※上記に『傳通院に応募者が参集した』とありますが、正確に言えば浪士隊の決起集会は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで、伝通院前の福聚院北側にあった処静院(しょじょういん)で行われたそうです。

しかし残念ながら、福聚院も処静院も現存していません。それでも訪問したいと思いました。



伝通院トップ画像
↑傳通院には、浪士隊(浪士組とも)の結成を幕府に献策した庄内郷士「清河八郎」の墓があり、それを見るのも探訪の理由の一つでした。



試衛館跡の標柱
「新選組を旅する」から引用した解説に「牛込柳町の天然理心流道場試衛館」とありますが、↑現在は試衛館跡(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)になっています。

試衛館跡は、都営地下鉄大江戸線「牛込柳町駅」の近くですが、そこから小石川の傳通院へは→牛込神楽坂→飯田橋→春日と3駅なので、併せて訪問するのも良いかもですね。



では、本編スタート!



新撰組九十九の謎
↑鈴木亨氏の「新選組九十九の謎」の『なぜ近藤勇は浪士隊に参加したか』の章を以下に引用・整理させて頂きました。
■永倉新八の『新撰組顛末記』によれば、文久2年(1862)の暮れも押し迫った頃、幕府の浪士募集をいち早く聞き込んで近藤勇のもとに報せたのは、永倉新八(試衛館道場の食客)だったようだ。
 
■試衛館の剣士達は、詳しく話を聞こうと牛込二合半坂の松平上総介の屋敷へ揃って出かけた。
 
■上総介は、浪士募集は来春上洛する将軍家(14代将軍家茂)の警護のためのものであることを語った。
 
■もとより、近藤らに異存はない。その場で参加を約束して道場へ戻ると『いよいよ我らの時節が到来した』と、大いに祝杯を挙げた。




↑前置きが長くなってしまいました(汗)傳通院の所在地は「東京都文京区小石川3丁目14−6」で、アクセスは、以下の通りです。

■東京メトロ丸ノ内線・南北線「後楽園」駅より徒歩10分
■都営地下鉄三田線・大江戸線「春日」駅より徒歩10分
■都バス都02、都02乙、上69「伝通院前」より徒歩2分



春日駅
↑ということで、都営地下鉄大江戸線で「春日駅」にやって来ました。

「春日」の地名の由来は、寛永7年(1630)に春日局(かすがのつぼね:三代将軍徳川家光公の乳母)がこの地を拝領し、町屋にしたことに因んだものなんだとか。

春日局の父は、明智光秀重臣の斎藤利三。定説では春日局は家光公の乳母ですが、生母とする説もありますね。

また、家光公の「家」は家康公の「家」から、「光」は「光秀」の「光」である、という説もあるんですよね。実に興味深い・・・



春日通り
↑駅から地上に出た所は、春日通り(国道254号)の富坂下(とみざかした)交差点で、丸ノ内線・南北線の「後楽園駅」の近くでもありました。交差点から南側へ行けば・・・



東京ドーム
↑東京ドームは、すぐ近く。



富坂下交差点
↑傳通院は、富坂下交差点から西側の高台の上に所在しているので・・・



伝通院への道
↑春日通りを西(茗荷谷・大塚方面)へ向かって坂を登って行き・・・



参道
↑警視庁 富坂警察署近くの「伝通院前」交差点を右折すると、山門が見えました。参道は車道(公道)になっていましたが、車は殆ど通らず・・・



参道と山門
↑車道の真ん中で撮影してしまいました(汗)試衛館道場の面々も、この参道を歩いたのでしょうね・・・



山門
↑山門前に到着。沿革は、傳通院公式サイトより、一部を以下に引用・整理させて頂きました。
■応永22年(1415)浄土宗第七祖了誉が開山。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創された。
 
■慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母於大の方が75才、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになった。
 
■慶長18年(1613)増上寺の学問僧300人を傳通院に移し、関東の十八檀林(僧の学問修行所)の上席とし、学寮に席をおくもの1,000人を下らぬという状況だった。
 
■正保4年(1647)には、家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り諸堂伽藍を整備した。



山門全景
↑逆側からも。



寺号標
↑山門右側の、寺号標。「浄土宗 無量山傳通院寿経寺」と刻まれていました。



山門左側
↑山門の左(西)側には、解説板が3基と、石柱が並んでいました。



処静院跡の石柱
↑右端の石柱と解説板。石柱の文字は、曹洞宗の寺院に立つ標柱の「不許葷酒入山門(くんしゅ・さんもんに・入るを許さず)」と同じでした。処静院は、曹洞宗だったのでしょうか?
浪士隊結成の 処静院跡の石柱
   
この石柱は、伝通院の塔頭(たっちゅう)の一つで、伝通院前の福聚院北側にあった処静院(しょじょういん)の前に建っていたものである。
 
石柱の文字は、修行と戒律の厳しさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。
 
文久三年(1863)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織「浪士隊」の結成大会が処静院で行われた
 
山岡鉄舟、鵜殿鳩翁(うどの・きゅうおう)、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢150人、その後、浪士隊を離れて、新選組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。
 
一行は、文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。
 
東京都文京区教育委員会
平成元年3月
※結成大会の参加者は総勢150人とありますが、250人とも、300人とも言われるようですね。



解説板
↑真ん中の解説板を以下に転記させて頂きました。

幕末の傑僧琳瑞上人
 
幕末の傑物と称せられている琳瑞は幼時、細谷房蔵と称し、天保元年十月出羽国(山形県)に生まれた。
 
幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内処静院住職福田行誡のもとに学んだその才は、見る見る内外に評価され、三十有歳にして士々の間においても認められる所となり、高橋泥舟、山岡鉄舟等皆彼のよき理解者であった。
 
彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取りつけ、大いに政治的動きをなした。
 
しかしながらこれは誤解を生む原因ともなり、慶応三年十月十八日深夜、彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬、松岡丙九郎なる人物らに三百坂で刺殺された。時に三十八歳と記されている。
 
昭和六十一年三月
文京歴史研究会



左端の解説板
↑左端の解説板。以下に転記させて頂きましたが「新選組の前進新徴組」とあり、あれ?と思いました。
新選組の前身
新徴組発会の処静院跡

 
幕末の歴史に一頁を残した新選組の前身新徴組は、江戸市中から応募した浪士隊として清川八郎、山岡鉄舟らの呼びかけで、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久三年二月四日、伝通院山内処静院で発会したと記録されております。
 
処静院はその後火災に遭い消失しましたが、この碑建立の一帯が処静院で、大黒天に隣接しておりました。
 
幕末時、処静院住職琳瑞和尚は、清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されましたが、いまなお伝通院内に墓碑が建立され供養されております。
 
このたび本会の事業として、この記念碑を建立し、長く歴史の時点を残すことに致しました。
 
昭和六一年二月
文教歴史研究会



新撰組九十九の謎
↑鈴木亨氏の「新選組九十九の謎」には、新徴組に関して以下の記述があります。
清河亡きあと幕府は浪士隊を再結成し、これを「新徴組」と名付け、江戸市中の取締りに当たらせた。
 
時を同じくして京都でも、残留した近藤勇、芹沢鴨をはじめとした浪士たちが「新選組」を組織している。
京都から清河八郎とともに江戸へ引き返した浪士を再結成したのが「新徴組」。清河八郎と袂を分かち、京都へ残った試衛館道場の面々と芹沢鴨一派で結成したのが「新選組」です。

どちらも前身は浪士隊(浪士組)ですが、新選組と新徴組は別物。「新選組の前身新徴組」という表現は、間違いではないでしょうか・・・



童門冬二新撰組
↑童門冬二「新撰組 物語と史蹟をたずねて」に記載の、浪士隊の募集から出発までの動きを以下に整理・引用させて頂きました。
文久3年(1863)2月4日
■幕府は、将軍上洛の特別警備隊に参加する江戸在住の浪士を小石川傳通院に集結させると約250人も集まり、数を聞いて松平上総介は仰天した。
 
■幕府は「参加者には、一人50両支給する」と公言して2,500両用意していたが、それでは50人分にしかならない。
 
■松平上総介は予算の拡大を幕府に掛け合うも「規定の予算でまかなえ!」と突っぱねられ、隊長を辞任してしまった(汗)
 
■これで浪士隊は解散か?と思われたが、幕府首脳陣は「こんな危険な連中を江戸に置いておいたら何をしでかすか分からない。江戸から追っ払ってしまおう」と考えた(笑)
 
■幕府は鵜殿甚左衛門を松平上総介の代わりとし、旗本の山岡鉄太郎(鉄舟)と松岡万(よろず)を補佐に任命した。
 
■「諸君に渡す金は、都合により一人10両となった。不服な者は、ただちに去れ!」伝通院で鵜殿甚左衛門は怒鳴った(笑)
 
■しかし、去る者は殆どいなかった。みな尽忠報国の念に燃えている者ばかり。というのは表向きで・・・
 
■「官費で京都へ行って一旗あげてやろう!」「こんないい就職口を諦められるか!」と思っている食うや食わずの貧乏暮しに疲れ果てた浪人が多かったのだ。
 
文久3年(1863)2月6日
■幕府は浪士隊(総員234名)を7隊に分け、各隊に3人づつ「伍長」を置いて編成を終えた。その内容は、以下の通り。
 
一番隊
伍長:根岸友山、山田官司、徳永大和。隊士27名。
 
二番隊
伍長:武田元記、大館謙三郎、黒田桃珉。隊士27名。
 
三番隊
伍長:常見一郎、新見錦、石坂周造。隊士27名。
 
四番隊
伍長:斎藤源十郎、松沢良作、青木慎吉。隊士27名。
 
五番隊
伍長:山本仙之助、森土鉞四郎、村上常右衛門。隊士27名。
 
六番隊
伍長:村上俊五郎、金子正言、西恭介。隊士27名。
 
七番隊
伍長:宇都宮左衛門、大内志津馬、須永宗司。隊士27名。
 
文久3年(1863)2月8日
■浪士隊、京都に向けて傳通院から出発。
 
文久3年(1863)2月23日
■中山道を通り、江戸を発って16日目の2月23日、浪士隊は無事京都へ到着した。
※試衛館道場の面々はいずれも平隊士の扱いで、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南啓助、永倉新八、原田左之助の6名は六番隊に組み入れられ、井上源三郎だけが切り離されて三番隊に配属されたようです。



新撰組九十九の謎
↑鈴木亨「新選組九十九の謎」には、2月8日に傳通院を発った浪士達のいでたちは凄まじかったようで、以下に整理引用させて頂きました。
■傳通院の前に住んでいた鈴木半平という者の手紙が、平尾道雄氏の『新撰組史録」に収められている。隊士達のいでたちは、以下の通り。
 
■総髪、野郎坊主の者、老人若者が交じり、黒木綿の無地羽織や野袴、半天、股引きなどを着ている者がいるかと思えば、筋金入りの鉢巻をしている者もあるという始末。
 
■大小はいずれも長刀を帯び、手槍、半弓、陣太刀などを所持している。
 
■およそ一斗は入ろうという瓢箪(ひょうたん)を背負っている者が二人いたが、これは焼酎(笑)だろうか。
 
■中に鹿革、紋付羽織の者が20人ほどいたが、これは水戸天狗党の連中だそうで、浪士一同まことに勇ましい有様だった。
なんだか、凄そう(笑)



山門近景
↑山門に接近。傳通院は巨大寺院だったようですが、Wikipediaには以下の記載がありました。
1945年(昭和20年)5月25日のアメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失。
 
かつての将軍家の菩提所としての面影は完全に消え去った。
 
1949年(昭和24年)に本堂を再建。現在の本堂は、1988年(昭和63年)に戦後2度目に再建されたもので、鉄筋コンクリート造りである。
 
2012年(平成24年)3月には山門が木造で再建された。



於大の方の幟
↑紫色の幟が、幾つも翻っていました。



提灯
↑山門前の提灯。



伝通院山門
↑逆側からも。現在の山門は、2012年(平成24年)3月の再建だったんですね。



山門正面
↑一礼して山門を潜り・・・



境内中央
↑境内へ入ると、とても静かでした。都心の寺院もなかなか良いもんですね。



本堂遠景
↑参道を前進。1988年(昭和63年)に戦後2度目に再建されたという本堂は、なかなかの大きさでした。



鐘楼
↑参道左側の、鐘楼。



本堂全景
↑鉄筋コンクリート造りとのことですが、全く違和感はありませんでした。



本堂
↑浪士隊が結集したのは傳通院本堂ではなく、今は無き処静院。しかも、傳通院本堂も往時の物ではない・・・

それでも往時の雰囲気を感じられ、訪問して良かったと思いました。



本堂全景
↑逆側からも。



本堂前の階段
↑階段を上がり・・・



階段と向拝柱
↑向拝軒下へ接近。鉄筋コンクリート造りと言っても、木の部分も多いので違和感が無いのでしょうね。



本堂の参拝口
↑参拝口は、こんな雰囲気。



扁額
↑浄財を入れ、合掌礼拝。「無量山」の山号額が掛かっていました。



向拝軒下
↑広い向拝軒下。



向拝軒下
↑逆側からも。



本堂側面
↑奥行きも、広い。この本堂東側面の向かいに・・・



解説看板

↑墓地に関する大きな解説板が立っており、以下に転記させて頂きました。

傳通院の墓所
 
当山は、応永二十二年(1415)、浄土宗第七祖了譽冏上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川四丁目)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
 
それから約二百年後の慶長七年(1602)八月二十九日、徳川家康公の生母於大の方が七十五歳、伏見城で逝去。
 
その法名を「傳通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿:二代将軍徳川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍徳川家光公の正室)、於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。
 
当山には、開創六百年におよぶ長い歴史の側面を物語る、著名な方々のお墓が現存しております。
 
史蹟めぐり、ご見学者の皆様へ
 
お参りなされる方は、必ず観音堂にお立ち寄り頂き、お声掛け下さい。観音堂にて、お線香、おしきび等をお買い求め下さい。
 
1)まずは本堂にご参拝下さい。
2)「参拝のしおり」は観音堂にご用意しています。
3)徳川家ゆかりの方々のほか、
  歴代墓のお墓にもお参りしましょう。
4)境内への飲食は慎んで下さい。
  飲食は観音堂総合案内所内でお願いしております。
 
お帰りの際は、観音堂までお声をお掛け下さい。
 
無量山 傳通院




観音堂
↑上記解説板に「観音堂」とあるのは、解説板の横に建つこちらの建物です。

上記解説ですと、史蹟めぐりの自分も観音堂でお線香、おしきび等を購入しなければいけないのか?と思ったのですが、他の見学の方は素通りして墓所へ入って行ったので、ま、いっか?と素通りしてしまいました(汗)



墓地案内図
↑誰のお墓が、どこに在るか?は、解説板近くの「境内・墓地参拝図」に掲載されていました。徳川将軍家関連墓所の詳しい紹介は、11月26日に公開します。



標柱
↑上記の地図を見て、広い墓地の中から「贈 正四位清川八郎正明之墓」の少し傾いた標柱を発見しました。



清河八郎墓の解説板
↑標柱の右側、墓所の右端に解説板が立っており、以下に転記させて頂きました。
清河八郎墓 
 
天保元年〜文久三年(1830〜1863)、幕末勤王の志士。羽前(山形県)清川村斎藤兵衛の長男。
 
嘉永四年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎(あさか・ごんさい)に儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。
 
はじめ眞木保臣(まき・やすおみ)・平野国臣らの尊王攘夷運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久三年幕府の浪士隊(のちの新撰組)結成に参画したが、近藤勇・土方歳三ら佐幕派と対立し、江戸に戻され、その後暗殺された。※隣は貞女阿連(おれん)の墓。
 
文京区教育委員会
平成三年三月



斎藤家墓所全景
↑墓所の全景。



清河八郎の墓
↑墓所中心の、清河八郎の墓石です。線香立てには「斎藤」と刻まれていました。徳川将軍家菩提所の傳通院に、幕府を騙した清河八郎の墓があることが奇妙な感じがしました・・・



斎藤家の墓石
↑清河八郎墓石の右隣、斎藤家の墓石。



阿連の墓石
↑清河八郎墓石の左隣には八郎の妻(妾とも)貞女阿連(おれん)の墓石がありましたが、阿連をググっても情報は得られませんでした。



新撰組九十九の謎
↑もう少し詳しく、清河八郎について。鈴木亨「新選組九十九の謎」の『新選組の生みの親、清河八郎とは、どんな男か』と『清河八郎の建白書は、どんなものだったか』の章より、以下に要点を引用・整理させて頂きました。
■清河は天保元年(1830)出羽国田川郡清川村に生まれ、家は郷士で、本名は斎藤元司といった。
   
■18歳のとき家を捨てて江戸へ出て、神田お玉ヶ池の千葉周作の道場に入門。たちまち頭角を現し免許皆伝の腕となった。
 
■文は安積艮斎の塾に学び、幕府学問所にも籍を置いたが「古来、聖堂より大豪傑の出たることなし」と見切りをつけ、神田三河町に私塾を開いて弟子を集めた。出身地に因んで清河八郎正明と名を改めたのは、この頃らしい。
 
■ペリー来航後に沸き起こった尊王攘夷論に共鳴した清河は、たちまちリーダー的な立場に躍り出た。
 
■しかし文久元年(1861)に、ふとしたことから人を斬り幕吏に追われる身となった。
 
■諸国を巡った清河は、各地で尊攘派の志士と語らい連携を図った。
 
■清河の策動によって京都に集結した薩摩藩士を含む尊攘派志士らは密かに討幕挙兵計画を進めたが、文久2年(1862)4月、公武合体論者の薩摩藩主島津久光は刺客を送って自藩の急進派を斬り、清河の討幕計画は頓挫した。(寺田屋事件)
 
■清河が江戸へ戻ると、幕吏の追求は厳しくなっており、水戸から奥羽方面に潜伏して再起の機を伺った。
 
■文久2年(1862)11月、清河は知人の幕臣松平主税介(ちからのすけ)忠敏を通じて、時の幕府政事総裁松平春嶽に浪士隊の募集を献策した。
 
■尊攘派浪士の横行に手を焼いていた幕府は、直ぐこれに飛びついた。しかし、この献策の背後に潜む清河の野望に幕府は気付いてはいない。
 
■京都に入った浪士隊は、壬生村を宿所として旅装を解いた。その夜、清河は浪士一同を本営の新徳寺に招集した。そして・・・
 
■このたびの上洛は、単なる将軍警護が目的ではなく、ただただ尊王攘夷の尖兵たらんとするものである。よってこの素志を天聴に達するため上書を起草しておいた。と前置きして・・・
   
■「謹みて言上奉り候」で始まり「天地に誓って懇願奉り候。誠恐誠惶頓首謹言」で終わる長文を読み上げた。
 
■その内容は「幕府の世話で上京したが、禄は受けていない」「皇命を妨げる者は例え重臣であろうと容赦しない」など「討幕」とまではいかないまでも、明らかに反幕思想が盛り込まれていた。
 
■読み終えるなり清河は、決死の形相で『ご異存はござるまいな』と一座を睨めまわした。その気迫に押され誰一人反対する者がなく、清河は建白書を学習院(朝廷の議政所)に受理させた。
 
■それから五日後の2月29日『蛮夷拒絶の叡旨を奉じ、固有の忠勇を奮起し・・・』といった内容の勅諚が浪士隊に下り、関白近衛忠煕からの賞詞も添えられていた。
 
■その賞詞には『叡聞に達し、叡感斜めならず』とあり、浪士隊のことは天皇の耳にも入ったという。『遂に我が事成れり!』と清河は狂喜した。
自分がその場にいたとしたら「嘘だろ!?俺達は、将軍様の警護をするために集められたんじゃねえのかよ!?」と思ったと思います。

試衛館御一行様は、どう感じたのでしょうか・・・



童門冬二新撰組
↑童門冬二「新撰組 物語と史蹟をたずねて」には以下のように描かれています。
■近藤勇たちはゾロゾロと宿舎の八木邸に戻って来た。「どうもすっきりしねえな」土方歳三が呟いた。
 
■「俺も同じだ。清河の言っていることはスジはスジだが、胡散臭い」山南敬助も同調する。
 
■攘夷はもともと試衛館一門の合同思想だから異論はないにしても、清河八郎という人間に何か胡散臭いものを感じる。「あいつ、ホンモノか?」という疑いが湧いてくる。
 
■朝廷も幕府も一緒になって攘夷をやればいいじゃねえか。そのために和宮が将軍の嫁さんになったんだろう?
 
■天皇と将軍が気を揃えることが大事なんで、なにも喧嘩の種を俺達が作ることはねえじゃねえか、と思っている。



新撰組九十九の謎
↑鈴木亨「新選組九十九の謎」より、その後の清河八郎と幕府の動きを整理・引用させて頂くと・・・
■浪士募集の献策をした清河が勝手に攘夷の勅諚を手に入れたことに、幕府は激怒(そりゃ、そうでしょ)した。
 
■当時在京していた将軍後見職の一橋慶喜と政事総裁職の松平春嶽は急ぎ相談し、浪士隊を江戸へ追い返すことにした。
 
■そのため、3月3日付けで関白鷹司政通から『横浜にイギリス軍艦が渡来し生麦事件が起こり、今にも戦争が始まりそうだから、速やかに江戸へ戻って攘夷を実行せよ』という内容の勅諚を出して貰った。
   
■やむなく清河は3月13日に京都を発った。その一行には、沖田総司の兄林太郎も加わっていた。江戸に入ったのは3月28日である。
 
■その後清河は、同志の石坂周造、村上俊五郎らと横浜の夷人屋敷襲撃を画策。こんな動きが幕府方に知れないわけがない。
 
■万一、清河らに外国人殺傷事件など起こされたら生麦事件の二の舞になる。幕府は清河を暗殺して計画を阻止しようとした。
 
■清河の攘夷決行2日前の4月13日、酒に寄って赤羽橋の辺りを歩いていた清河は、幕府刺客の佐々木只三郎、速見又四郎らに斬殺された。年34であった。
 
■幕府は浪士隊を再編成し、これを「新徴組」と名付け、江戸市中の取り締まりに当たらせた。
※つまり幕府は、清河に「お前の好きにはさせん!」と「浪士隊は幕府の管轄下にあること」を示したわけですね。清河は「やられた!」と思ったのではないでしょうか・・・



童門冬二新撰組
↑試衛館の面々は江戸には戻らず、後に新選組が誕生するわけですが、童門冬二「新撰組 物語と史蹟をたずねて」より以下に整理・引用させて頂くと・・・
■清河の「江戸に戻る」という宣言に、突然「私は反対する。このまま京都に残る!」と近藤勇が立ち上がった。
 
■「俺も残る!」「私も残る!」と土方歳三以下、試衛館一門も続いて立ち上がった。
 
■「俺も残るぞ!」と大声をあげて芹沢鴨が同調し、芹沢の部下達も立ち上がった。合計13人。他の浪士達は、呆気にとられて13人を見つめた・・・
 
■「なに!」清河八郎の顔がみるみる赤くなり「きさまぁ、斬る!」と清河の配下が近藤達に迫ろうとしたが「待て!」と山岡鉄太郎(鉄舟)が止めた。
 
■山岡は「近藤君の言い分にも一理ある。私からも頼む。京都に残って将軍を守ってくれたまえ!」と言った。
 
■清河はまだ目を光らせていたが、結局は諦めた。



新撰組顛末記
↑永倉新八「新撰組顛末記」の記載で、その後の流れを見てみますと・・・
■清河と決別した13人は、その足で鵜殿鳩翁を訪ね仔細を話すと、鵜殿も芹沢らの意見にしごく同意し「その次第は拙者から、会津候(京都守護職 松平容保:会津藩9代藩主・肥後守)へ伝達するであろう」ということになった。
 
■会津候、すなわち松平肥後守は「この13名は当藩で預かる」と芹沢らを預かることとなった。
 
■そこで八木の邸宅の前へ「壬生村浪士屯所」と大きな看板を掲げ、13名はここに独立した。
 
■同時に、清河八郎暗殺の内命が会津候から芹沢以下に伝えられたのである。
 
■血に飢えた13名は清河を狙うが、清河も警戒し芹沢らも手の下しようが無かった。
※清河は江戸に戻ってから殺されたわけですが、既に京都で殺害指示が出ていたわけです。ま、そうなるでしょうね・・・



新撰組九十九の謎
↑鈴木亨「新選組九十九の謎」の「なぜ近藤勇は京都に残留したのか」の章より、補足情報を整理・引用させて頂くと・・・
■清河一派には「芹沢や近藤などは切腹させてしまえ!」と息巻く者もあったが、結局は清河が憤然と畳を蹴って席を立つという形で、芹沢、近藤一派の残留が決まったのである。
 
■近藤がそこまで強気に出て清河と袂を分ったのは、京都守護職松平容保との間に密約ができていたからだった。
 
■京都の治安を預かる容保は、その尖兵となるべき浪士隊が欲しかった。そこで上洛して来る浪士隊を心待ちにしていたのだ。ところが浪士隊は、江戸へ返されることになってしまった。
 
■その時、会津藩所縁の浪士取締役の佐々木只三郎から近藤一派の気骨あることを知り、配下に留めることにしたのである。
 
■清河がまだ京都に在留中の3月10日、近藤らは松平容保に対し「我らは浪々の身となっても天朝ならびに将軍家の御守護をし奉る所存」という趣旨の嘆願書を提出。
 
■この残留浪士を会津藩預かりとする件は、浪士隊が京都を発つ3月13日の前夜まで伏せられていた。清河らを刺激すまいとの配慮からだろう。
 
■晴れて会津藩預かりとなった芹沢、近藤ら13人は3月15日、金戒光明寺の守護職本陣へ挨拶に出向いた。
 
■松平容保は留守だったが、家老が応待し酒肴を出してもてなした。感激した一同は「身命を投げ打って御奉公つかまりたい」と述べ、退出している。



史伝 土方歳三
↑木村幸比古「史伝土方歳三」には、会津藩お預かりになったのは定説の「13人」ではなく「14人」とあり、以下に転記させて頂きました。
残留した浪士は「松平肥後守御預壬生浪士組宿」の大きな看板を掲げた。新選組の雛形ともいうべき組織の誕生であった。
    
局 長:芹沢鴨、近藤勇
 
副 長:新見錦、山南敬助、土方歳三
 
組 頭:沖田総司、永倉新八、藤堂平助、原田左之助、
    斎藤一、平山五郎、野口健司、井上源三郎
 
勘定方:平間重助
※定説の13人に入っていないのは、斎藤一(はじめ)です。斎藤は京都に潜伏中で傳通院から京都に上っておらず現地で合流していますが、そのためでしょうか・・・



新撰組九十九の謎
↑鈴木亨「新選組九十九の謎」の「京都に残留した同志は何人か?」には「13人が定説」で、他に14人説、17人説、20人説、24人説、25人説があると記載があります。
■17人説は、3月10日に会津藩に呈出した文書の写しの連盟によるもので、13人のほかに斎藤一、佐伯又三郎、粕谷新五郎、阿比留鋭三郎の4人を加えている。
 
■20人説、25人説は『始末記』に記載がある。
 
■24人説は、会津藩の『藩庁記録』に24人の名前が記載されていることによる。
以上は京都での話。京都の新撰組関連史蹟も探訪したいところですが、京都は遠い・・・



沢宣嘉の墓の解説板
↑他には、文久3年(1863)8月18日の政変で長州へ落ちた公卿、沢 宣嘉の墓所を見学しました。解説は、以下に転記させて頂きました。
沢 宣嘉(さわ・のぶよし)の墓
 
天保六年〜明治六年(1835〜1873)
 
公卿、政治家。三条実美らとともに尊攘派公卿として活躍するも、文久三年八月十八日の政変による尊攘派失脚ののち「七卿落」の一人として長州藩に逃亡。
 
のち、明治政府のもとで参与、九州鎮撫総督、外国事務総督、長崎府知事、外務卿を歴任して明治初期の外交を担当した。
 
昭和十四年 都指定「旧跡」
平成元年三月
東京都文京区教育委員会



沢宣嘉の墓
大きな墓石には「特命全権公使贈正三位澤宣嘉墓」と刻まれていました。補足として、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂きました。
澤 宣嘉(さわ のぶよし)は、幕末の公卿。権中納言・姉小路公遂の五男。参議・澤為量の養嗣子(娘婿)。官位は従三位・右衛門権佐。澤家8代当主。維新後、初代外務卿。
    
天保6年(1836年)姉小路公遂の五男として誕生。後に澤為量の娘・藤子と結婚し、その婿養子(継養子)となる(為量の実子宣種は、宣嘉の養嗣子となる)。
 
安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の際は養父と共に勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。
 
文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託して長州藩が京都から追放された八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ちする(七卿落ち)。
 
長州へ逃れた後は各地へ潜伏し、同年10月平野国臣らに擁立されて但馬国生野で挙兵するが(生野の変)、3日で破陣。
 
田岡俊三郎(小松藩士)、森源蔵、関口泰次郎(水戸藩士)、高橋甲太郎(出石藩士)と脱出して、四国、伊予国小松藩士らに匿われた。



史伝 土方歳三
↑ちなみに浪士組は8月18日の政変に出動しています。木村幸比古「史伝 土方歳三」の記載を以下に引用・整理させて頂きました。
■八・一八の政変には、会津藩公用方の野村佐兵衛から浪士組に出動の要請があった。
 
■このとき、芹沢は80名の隊士を2列に並べ行進させ、指揮をとった。
 
■先頭になびくのは六尺四方、赤字に白抜きの「誠」の一字の隊旗。芹沢と会津兵が一悶着起こしそうになったが、事なきを得た。
 
■隊士らには黄色の「會」印の会津藩のたすきが配られ、その夜に武家伝奏の野宮定功と飛鳥井雅典より「新選組」の隊名が下された。
 
■ここに至り、歳三らの浪士組は法的にも認知され、新選組は正式に誕生を見たのである。
 
■歳三ら新選組隊士は、引き続き八・一八の政変後の浪士に対する厳重な取り締まりを行った。
 
■8月21日、朝廷より新選組に対し市中取締が命ぜられ『手向かいする者は斬り捨ててもよい』と申し渡された。
※こうして試衛館道場の面々は、遂に歴史の表舞台に立ったわけですね。 \(^o^)/



千姫墓所の解説板

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