武蔵と相模の史蹟探訪記

東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。

近藤勇と新選組隊士供養塔(東京都北区)探訪記

2023.08.13 (Sun)
供養塔メイン画像
慶應4年(1868)4月25日、板橋刑場で官軍により斬首された新選組局長 近藤勇が葬られた場所、JR埼京線の板橋駅近くに所在する史跡「近藤勇と新選組隊士供養塔」を探訪しました。

自分は武州多摩(東京都西部)在住ですが、多摩は近藤局長や土方副長などを始めとする、天然理心流剣士の地元として知られていますね。

自分は小学6年の時、授業で新選組を教わり「僕も大人になったら新選組に入る!」と思ったものですが(笑)近藤局長終焉の地、板橋の墓所を探訪して感無量でした。

↑写真の供養塔ですが、近藤先生の諱(いみな)昌宜(まさよし)が「冝昌」と間違っていることに気付いた方は、かなりの新撰組通だと思います。自分は、現地解説板を読むまで気付きませんでした(恥)



解説板

↑史跡概要は、現地解説板を以下に転記させて頂きましたので、御参照ください。

東京都北区指定有形文化財(歴史史料)
近藤勇と新選組隊士供養塔
 
北区滝野川7-8-1 寿徳寺境外墓地
 
慶応四年(1868)四月二十五日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で、官軍により斬首されました。
 
その後、首級は京都に送られ、胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。
 
本供養塔は、没後の明治九年(1876)五月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり、旧幕府御典医であった松本良順の協力を得て造立されました。
 
高さ3.6メートル程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。
 
正面には「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。
 
なお、近藤勇の諱(いみな)である「昌宜」が「冝昌」とされていることについては明らかになっておりません。
 
右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に、合計百十名の隊士などの名前が刻まれています。
 
裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。
 
戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。
 
本供養塔には、近藤勇のほか、数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本史料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。
 
平成十六年三月
東京都北区教育委員会
※「昌宜が『冝昌』になっているのは、間違い」とWikipediaには記載がありました。致命的なミスですね・・・



↑Googleマップで「近藤勇と新選組隊士供養塔」は、近藤勇の墓と表示されました。当初は、近藤先生の墓だけが建っていたからではないでしょうか。


史跡は、JR板橋駅東口(滝野川口)の通りを挟んだ向かい側です。都営地下鉄三田線「新板橋」駅からですと、徒歩5分くらいでしょうか。




寿徳寺トップ画像
上記に転記した解説の史跡所在地に「寿徳寺境外墓地」とあります。↑写真の寿徳寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)は、近藤先生はじめ新選組隊士の菩提寺で、新選組隊士供養塔から徒歩10分ほどの場所に所在しています。



寿徳寺の所在地は「東京都北区滝野川4丁目22−2」で、板橋駅から北東方向の石神井川(しゃくじいがわ)の近くです。併せて訪問するのも良いかもですね。




板橋駅

↑というわけで、JR埼京線で板橋駅にやって来ました。恥ずかしながら埼京線に乗るのも板橋駅も、初めて。史跡所在地の北区へ来たのも、初めてです。 




板橋駅前ロータリー

↑板橋駅は、新宿から埼京線で2駅でした。改札を出て東口(滝野川口)へ出ると、駅前ロータリーの向こう側に史跡の一画が見えました。




史跡遠景

↑史跡は、特に名前の付いていない駅前通りの「板橋駅東口前」交差点を渡った所、その区域は、思っていたより広い感じでした。




近藤勇墓の全景

↑入口から見た、史跡全景。




史跡全景

↑史跡区域に入ると正面奥、3.6メートル程あるという大きな供養塔が目に飛び込んで来ました。


参道左側には近藤先生の肖像石板があり、その隣は永倉新八の大きな墓塔。写真右端には、近藤先生の小ぶりな石像が見えます。




史跡中央

↑まずは、供養塔に接近。




供養塔全景

↑斜めから。入口右側に、小さな屋根が付いたポストのような箱があったのですが・・・




賽銭箱

↑賽銭箱になっていたので、お賽銭を投入し・・・




供養塔全景

↑近藤局長と新選組隊士の皆様に思いを馳せ、合掌礼拝。供養塔は、近藤先生が斬首された慶應四年(1868)の8年後、明治九年(1876)5月に建立されたとのことですね。




供養塔メイン画像

↑供養塔の土方先生の「歳」と「三」が中心からズレており、また「豊」の字が欠けているのが気になりました。細かい事が気になって仕方ない、僕の悪い癖(汗)




供養塔右側面

↑供養塔の右側面。Wikipediaの板橋刑場のページには、以下の記載がありました。

右側面には戦死者四十名、左側面には病死者、切腹、変死、隊規違反で処刑された、六十四名の名前が刻まれている。




供養塔右側面上部

↑右側面の最上部には、右から井上源三郎(副長助勤:六番組長)、原田左之助(副長助勤:後に彰義隊に加入し上野で戦死とも)、山崎烝(諸士調役兼監察)、宮川信吉(近藤勇の従弟)、伊藤鐡五郎(伍長、指図役)の名が読めました。




供養塔右側面

↑全員確認しようと思ったのですが、全く知らない方も多いので(恥)以下は省略させて頂きました(汗)




供養塔左側面

↑左側面。




左側面接近写真

↑判読できる箇所は所々にあるものの、全く読めない箇所もあり、転記は断念。こちら側には、病死、切腹、変死、隊規違反で粛清・処刑された64名の名前が刻まれているわけですね。


新選組が殺した敵(反幕派浪士)は、26人(意外と少ない)なのに対して、権力闘争(内ゲバ)で粛清・殺害した味方(新選組隊士)は40人と、敵より多いのが驚き(汗)


この暴力組織としての側面から、新選組を毛嫌いする方も少なくないようですが「それでも新選組が好き」と仰る方も多いようです。ま、人それぞれ・・・




新撰組九十九の謎
↑PHP文庫の「新撰組九十九の謎」の著者、鈴木亨氏は、以下の内容の事を述べています。
新選組を、単に幕府の走狗になった人斬り集団と見ることだけは間違いである。
 
京都に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致して長州に移すという “不逞の徒” の計画を未然に防いだのは、新選組である(池田屋騒動)。

※京都を救ったにも関わらず、京都の人々は新選組を「壬生狼」「人斬り狼」と毛嫌いし、蔑んだようですね・・・




供養塔裏面

↑裏面です。「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新選組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と当初は刻まれていたようですね。




無縁塔

↑供養塔左側の、無縁塔。




卒塔婆

↑無縁塔と、左側の卒塔婆。「宝塔者為近藤勇百五十六回忌 と 新選組諸隊士一切精霊菩提也」と読めました。




供養塔の右側

↑供養塔右側には、鷹の石像と近藤先生の墓石が建っていました。



近藤勇供養塔
↑墓石には「慶應四戌辰年四月二十五日 勇生院頭光放運居士 近藤勇 冝昌」と刻まれており、こちらも諱の「昌宜」が「冝昌」となっていました(汗)困ったもんだ・・・



新撰組九十九の謎
↑ここで、PHP文庫の「新撰組九十九の謎(鈴木亨氏著)」より、近藤先生の甲陽鎮撫隊出撃から処刑までを以下に簡単に整理してみました。
■慶応4年(1868)2月28日
近藤勇、幕府から甲陽鎮撫を命じられ、幕府と会津藩から軍資金と武器を与えられた。近藤は「大久保剛」と変名を名乗り、新選組は甲陽鎮撫隊(こうよう・ちんぶたい)と改名した。
 
■3月4日
大久保剛率いる甲陽鎮撫隊は、花咲宿(山梨県大月市)で板垣退助率いる迅衝隊が甲府城を制圧したことを知る。
 
■3月6日
甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で、甲陽鎮撫隊は迅衝隊に惨敗。勝手に戦線離脱する隊士も多く、壊滅状態に陥る。
 
■3月8日
甲陽鎮撫隊は八王子宿(東京都八王子市)まで敗走し、近藤は多賀神社(八王子市元本郷町)で江戸への引き上げと甲陽鎮撫隊の解散を宣言。
 
■3月11日
近藤、江戸で永倉新八、原田左之助と再会。二人は「共に会津で再起を図ろう」と提案するが、近藤は「自分の家臣になるなら」と条件を出したため、怒った永倉と原田は「自分は、あなたの家来ではない」と決裂した。
 
■3月13日
近藤と土方歳三は、会津行きに備えて五兵衛新田(東京都足立区綾瀬)で旧幕府歩兵らを糾合し、隊士は227名に増加した。近藤は、変名をさらに「大久保大和」と改めた。
 
■4月2日
鎮撫隊、下総国流山(千葉県流山市)に着陣。しかし、新政府軍は3月13日には既に板橋宿(東京都板橋区)に入っていた。
 
■4月3日
新政府軍、流山の旧幕府軍を包囲。兵は野外訓練に出かけており、屯所には幹部と数名の兵しかおらず、近藤は「もはやこれまで」と覚悟を決めた。
 
■近藤は、有馬藤太(ありまとうた:薩摩藩士で東山道総督府斥候)に「大久保大和」という名札を差し出した。この時、有馬藤太は相手が近藤勇と分かったという(諸説あり)。
 
■有馬が「粕壁の屯営まで同行されたい」と言うと、近藤は「一応の後始末をつけてから戻って来る」と答え、有馬はこれを許した。
 
■しかし何時になっても近藤は現れず、しびれを切らした有馬は、兵を連れて流山の陣所に乗り込んだ。
 
■すると紋付袴姿の近藤は待たせたことを詫び、近藤と有馬が粕壁屯営についたのは、深夜12時頃だった・・・

有馬藤太を待たせている間、近藤先生は何をしていたのか?京都府立綜合資料館所蔵「新撰組往時実践談書(新撰組隊士近藤芳助の手紙)」によれば・・・

■勇は既に割腹の決心をもって暫時、時間の猶予を乞い、二階に登り三、四名と会合す。
 
土方の曰く『ここに割腹するは犬死なり。運を天に任せ、板橋総督へ出頭し、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん』と云う・・・
 
つまり「ここに駐屯したのは過激な旧幕兵を鎮圧するため」という言い逃れ。大久保大和が近藤勇だと看破されないと思っていたのだろうか・・・
 
■近藤勇の身柄は、粕壁の屯営から板橋の本営に送られることになった。板橋本営では有馬藤太からの報告で、既に大久保大和が近藤勇だと知っていた。
 
■途中の越ヶ谷まで来ると、板橋本営から高台寺党生き残りの加納道之助が面通しの為に派遣されており、大久保大和は近藤勇であると断定。近藤勇は縄を打たれ、囚人の扱いになった。
 
■4月8日から取り調べが行われ、近藤勇は流山の布陣も甲州への出撃も、官軍に抵抗したのではなく『慶喜公の意を解さず暴発する輩を鎮圧するため』とシラを切り通した。
 
■坂本龍馬を殺害したのは新撰組だと信じ込んでいる土佐藩の谷守部(干城)は、近藤への憎しみが深く、執拗に「拷問にかけろ」と主張したが、薩摩藩の平田九十郎は「勇は身分賤しき者ではない。拷問などできぬ」と突っぱねた。
 
■谷守部は、近藤の口から「勝沼戦争や流山布陣が勝海舟の命によって政府軍に抵抗するため」という自白を引き出したかった。
 
しかし薩摩藩は、勝と結んで政治的解決を図っており、近藤の口から勝海舟の名が出るのを防ぎたかったと思われる。
 
■裁判官側は薩摩と土佐に分かれて激論が展開され、問題は総督府まで持ち込まれた。
 
薩摩藩参謀の伊知地正治は「薩摩の論が入れられないなら兵をまとめて帰る」と言いだし、総督府は土佐藩を宥め、止む無く勇の拷問を断念した。
 
■板橋で訊問を受けている間、近藤勇は板橋宿本陣の飯田宇兵衛宅に幽閉され、すぐに脇本陣の豊田市右衛門方に移された。

※現在の定説では「坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害したのは、京都見廻組」となっていますが、自分が教わった当時は「犯人は新選組」でしたね(汗)



本陣跡
↑近藤先生が最初に幽閉された板橋宿本陣(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)の飯田宇兵衛宅は、民家前に「板橋宿本陣跡」の標柱と解説板が残るのみで、諸行無常・・・



脇本陣豊田家
↑近藤は「すぐに脇本陣の豊田市右衛門方に移された」と上記にありますが、その地も、中山道板橋宿 平尾脇本陣・豊田家屋敷跡(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)として、標柱と解説板が残るのみです。

幽閉中、近藤先生は次の二編を詠んだそうです。
孤軍援絶作俘囚(孤軍援絶えて俘囚となる)
顧念君恩涙更流(顧みて君恩を念えば涙更に流る)
一片丹衷能殉節(一片の丹衷能く節に殉ず)
雎陽千古是吾儔(雎陽千古是吾がともがら)
 
靡他今日復何言(他に靡今日復何かを言わん)
取義捨生吾所尊(義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所)
快受電光三尺剣(快く受ける電光三尺の剣) 
只将一死報君恩(只将に一死をもって君恩に報いん)

↑この詩を自分が現代文に訳せるわけもなく(汗)Tactical Media様の「近藤勇 最後の言葉〜辞世の句」のページより、以下に引用させて頂きました。
軍が孤立し援軍も絶え、囚われの身となった。主が気にかけてくれたことを思い出すと涙がさらに流れてくる。
 
一面に溢れる忠誠心で節義に殉じる。唐の時代の忠臣 張巡こそが私の同志である。
 
敵になびいて言うべきことはない。生きることを捨て義を取ることは、私が尊ぶところである。
 
斬首を快く受け入れよう。一死をもって主の恩に報いるのだ。
※原文に「君恩」が2回出て来ますが「君」は徳川慶喜を指すようです。その慶喜は京都守護職、京都所司代の松平兄弟を追放し、主戦派の小栗忠順(上野介)を罷免して(トカゲの尻尾切り)恭順の名のもとに自分だけ安全圏へ遁走。

「近藤の心情は哀れというよりほかない」と「新撰組九十九の謎」の著者鈴木亨氏は述べていますが、同感です。



史伝 土方歳三

流山で近藤局長と別れた土方先生、官軍に包囲されたなか良く脱出できたもんだと思うのですが、その後どうしたのか?


↑学研文庫の木村幸比古著「史伝 土方歳三」には、以下の記述がありました。

■歳三は一縷の望みをかけ江戸へ走り、大久保一翁と勝海舟に会って、近藤の助命嘆願を願い出た。
 
■しかし、江戸城明け渡しの難問を控え大久保も勝も、それどころではなかった。
 
■歳三は嘆願を諦め、一部の隊士を率いて江戸脱出を決意した。
 
■4月11、12日にかけて集結した旧幕府脱走兵は2,000人を超え、歳三もこれに加わった。




新撰組九十九の謎

脱線してしまいました(汗)引き続き近藤局長の処刑の様子を「新撰組九十九の謎(鈴木亨氏著)」より以下に整理しますと・・・

■4月24日
近藤勇の身柄は、脇本陣豊田家から滝野川三軒屋(北区滝野川)の石山家に移された。
 
近藤は風呂に入ったり絵草紙を読んだりと、くつろいだ様子だったという。覚悟を決めていたのだと思われる。
 
■4月25日
早朝、髭を剃った近藤は石山家の人々に手伝ってもらい白い着物に着替え、駕籠で刑場(板橋刑場)へ連行されて行ったという。
 
処刑を目撃した近藤勇五郎(勇の甥)の目撃談によると、服装は「黒の紋付羽織に亀綾(かめあや)の袷(あわせ)」とのことで、石山氏の「白い着物」とは証言が異なる。
 
駕籠から下りた近藤は、むしろの上に立って暫く空を眺めていた。穴の前で月代(さかやき)と髭を剃らせた後「ながなが御厄介に相成った」という声が、勇五郎の所にもはっきり聞こえた。
 
近藤の首を落としたのは、東山道総統府付きの横倉喜三次という剣客であったという。近藤勇は、享年35(満33歳没)

※上記に「石山家」とありますが、新選組隊士供養塔の建つこの地は、元は石山家の庭だったようです。だから石山家へ移されたのでしょう。 



近藤局長の首は、とりあえず刑場に晒され、次のような処分書が掲げられたとのこと。

右は元来浮浪の者にて、初め在京新選組の頭を勤め、後に江戸に住居致し、大久保大和と変名し、甲州並びに下総流山において官軍に手向かい致し、或いは徳川の内命を承り候などと偽り唱え、容易ならざる企てに及び候段、上は朝廷、下は徳川の名を偽り候次第、その罪数うるに暇あらず、よって死刑に行い梟首せしむ者なり

※首は京都へ送られて閏4月8日に三条河原に梟されたそうですが、首の行方は不明のようです。



処刑を目撃した近藤勇五郎(勇の甥)の話を以下に整理・引用しますと・・・

勇五郎は、勇の首が斬られたのを見ると一目散に駆け出し、五里(約20km)の道を疾走して武州上石原(東京都調布市、勇の生家)へ戻り、親族へ報告。
 
■それから三日目の夜、勇五郎は兄の源次郎、分家の宮川弥七(新撰組隊士 宮川信吉の兄)と死骸を引き取りに行き、番人に三両を渡して勇の首のない屍を掘り起こして棺箱へ納め、駕籠で夜のうちに上石原へ戻った。
 
■勇五郎らは、勇の屍を近藤家菩提寺の龍源寺に埋め、その上に石碑を建てた。
 
■政府軍は死体が盗まれるのを恐れ、旧家の田口家に見張りをさせていた。田口家当主は買収されるような人物でなかったことから、地元では「死体を掘り起こすことなどできなかったのでは?」と語られた。
 
■昭和4年、板橋の近藤の墓を改修する際、石山亀二氏は工事に参加して「この手で首のない死体の骨を拾い、再葬した」と語っている。果たして板橋の墓に埋められているのは近藤勇の屍なのか?疑問が残る・・・




近藤勇墓塔
↑こちらは近藤勇実家にほど近い、東京都三鷹市に所在する近藤家の菩提寺、龍源寺(探訪記は、9月10日公開)の墓地に建つ、近藤先生の墓塔です。



石版

↑またまた脱線してしまいました(汗)以下、その他の史跡を紹介して行きます。こちらは参道左側、近藤先生の肖像石版。


ちなみに、この石板と同じ物が、新選組隊士菩提寺の寿徳寺の山門脇にも建っています。




肖像石板アップ

↑アップで。




石板の裏面

↑裏面の文字は、以下に転記しました。


勇生院頭光放運居士 百二十三回忌菩提
俗名 新選組隊長近藤勇 行年三十五歳
 
肖像石板建立 二枚之中二
平成二年四月二十五日
 
願主
真言宗豊山派 南照山観音院 寿徳寺
第二十四世住職 新井彗誉 合掌
 
絵 橋本美智子
刻 石治石材

※「肖像石板建立」の後に小さく「二枚之中二」とあります。寿徳寺山門の物は「二枚之中一」なんでしょうね。




永倉新八墓石

↑近藤先生肖像石板の隣、永倉新八の大きな墓塔。




永倉新八墓

↑墓塔には「新選組永倉新八墓 従二位勲三等侯爵蜂須賀正韶書」と刻まれていました。


幕府11代将軍 徳川家斉の曾孫、蜂須賀正韶(はちすか まさあき)については、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂きました。

蜂須賀 正韶(明治4年3月8日(1871年4月27日)〜昭和7年(1932年)12月31日)は、日本の政治家、侯爵。阿波蜂須賀家第17代当主。徳川家斉の曾孫。




新撰組顛末記

↑新選組13人の大幹部のうち、ただ一人生き残った二番組長永倉新八は、北海道に渡って小樽に移住。


小樽新聞の記者の取材に応じて語った連載をまとめた「新選組顛末記」が、中経出版の新人物文庫から出ています。


ちなみに、ファンの間で「新選組で一番強かったのは誰か?」が良く話題になりますが「新撰組九十九の謎」著者の鈴木亨氏は、1位 沖田総司、2位 近藤局長、3位 鬼の副長の次に永倉新八としています。




解説板

↑参道右側、史跡入口近くに立つ冒頭に転記した解説板。その左側には・・・




肖像画の看板

↑右から近藤勇、土方歳三、永倉新八の肖像画が掲載された看板が建っていました。




看板の一部

↑肖像画の横には、簡単なプロフィールが記されているようでした。この位置から奥を見ると・・・




史跡右側の奥

↑石碑と石像、その奥に小さな立て看板が見えました。




石碑

↑まずは石碑ですが、題額は「史蹟」でした。碑文を以下に転記しましたが、昔の文章で句読点が全くなく読みにくいので、管理人の判断で句読点を打ち、適当と思われる箇所で改行してあります。

近藤勇 土方歳三両雄墓地改修紀年碑
 
新選組は文久慶應の此、幕府の命に依り時の京都守護職會津参議松平容保卿に附属し、京都の安寧秩序を保護し、近藤勇が隊長となり土方歳三が副長たるに及び、特に責任の重きを自覚し紀律を厳にし、恒に守護職の命令に依りて行動せる適法の警察隊なりき。
 
勇は夙に剣豪にて知られ、其侠勇は當時有志の徒を稱する過激派の浪士をして、心胆を寒からしむ。
 
而も混沌たる幕末の政変期に際し、此一代の剣豪は遂に朝敵の汚名を蒙り、明治元年四月二十五日瀧野川町三軒家(當時板橋刑場と云ふ)に於いて處せられ、其首級は京都に送られ胴以下を此地に埋めたるが、明治八年元の新選組助勤として勇と肝膽相照せる永倉新八事杉村義衛翁に副長土方歳三を加へて追悼の碑を此地に建設。爾来、墓地は其所有者たる寿徳寺に於て管理しあり。
 
而して幾度か改修の議起れるも、遂に其機會を得ずして今日に至り、昭和三年秋偶に秩父宮家に新選組に縁故最も深き舊會津藩松平家と御婚儀の盛典あり、又畏れくも聖上御即位の大典を擧させられ、世を擧げて奉祝の誠意を捧げまつる。
 
此時に當り曠古の御大典を奉祝し、併せて秩父宮家の御盛儀を紀念する意味に於て、此近藤土方両雄の墓地を有する當瀧野川町北谷端睦會は、會長以下各幹事二十九名発起人となり、七名の實行委員を擧げて境内改修の議を進むると共に、寿徳寺住職宮木宥弌師を始め近藤の生家たる宮川氏並に義衛翁の令息杉村義太郎氏へ提議せるに、何れも双手を擧げて賛同せらる。
 
尚其経費を廣く有志並に縁故関係者に募りしに、石碑裏面に記載せる諸氏の外参百余名の熱誠たる後援を得て同年十月十四日を以って起工し、同四年四月十五日竣工して境内の面目を全く一新し、長へに明治維新の史蹟を保存する事となりぬ。
 
世に近藤勇の英名を知るもの多きも、共修焉の地を知るもの甚だ尠し。茲に泉下の英霊を弔ふと共に此碑石の前に顧望すれば、幕末の天地に活躍せる両雄の面目眼前に髣髴たるものあるべし。
 
昭和四年四月
倉田清撰 丸山締蔵書



近藤勇石像

↑石碑の横、近藤先生の石像。




近藤勇石像

↑斜めから。




近藤勇の石像

↑アップで。




近藤勇の石像

↑さらにアップで。石像の裏側は・・・




当初の暮石

↑こうなってました。




当初の墓石の看板

↑ということで・・・




墓石

↑墓石を見てみると・・・




埋葬当初の墓石

↑文字は、どこにも刻まれていませんでした。当時は世相を憚って、墓碑銘を刻んでいない自然石を置いたのでは?と思いました。


撮影していると「近藤さんにお参りしてから帰ろう」と、声が聞こえたので供養塔を見ると、腰の曲がった老夫婦が並んで合掌礼拝しており、なんだか、胸を打たれました・・・


周辺には新選組隊士菩提寺の寿徳寺があるし、板橋宿には近藤勇が幽閉されていた本陣跡もある。近くにお住いの方々にとって、近藤局長と新選組は身近な存在なのでしょう。




近藤勇供養塔

↑脱線してしまいました(汗)それはさておき、新選組隊士供養塔右側の先生の墓石は、明治九年(1876)に供養塔が建立された時に併せて造立されたのでしょうか・・・




童門冬二新撰組

最後に、近藤先生が処刑された板橋刑場について。↑童門冬二氏の「新撰組 〜物語と史蹟をたずねて〜」には『処刑場跡は、新選組隊士供養塔の建つ区域の、向かい側の一角』と記載があります。




新撰組九十九の謎
↑また、PHP文庫「新撰組九十九の謎(鈴木亨氏著)」の記載では・・・
近藤の処刑跡は、現在の板橋駅東口の近藤の墓から200メートルほど離れた旧中山道沿いの「馬捨て場」だったという。
 
もしそうだとすれば、近藤の処刑地は従来言い伝えられている所と違ってくるわけである。
 
明治二年、小島為政がここを訪れ、その確認の図と記録を残している(小島資料館蔵)。
 
しかし、百年の歳月はその馬捨て場を飲食街に変えてしまっている。

※上記の「従来言い伝えられている所」とは、この近藤勇と新選組隊士供養塔のある場所です。昔は、ここで処刑されたとされていたんでしょう。


対して解説板には「中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場」とありました。また、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂きましたが、解説板とほぼ同じ内容でした。

板橋刑場(いたばしけいじょう)は、江戸時代末期に現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近に一時的に存在した刑場。
 
当時の中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近の馬捨場、現在のJR板橋駅北付近だった。現在では住宅地となっており、当時の面影はまったくない。


ということで、板橋刑場の推定地は・・・

(1)新選組隊士供養塔の建つ区域の向かい側の一角 
(2)当時の中山道板橋宿手前、平尾一里塚付近の馬捨場(現在のJR板橋駅北側付近)

の2箇所とみました。


平尾一里塚は「旧中山道沿いの板橋1丁目54付近にあったらしい」とのことですが、現在は何も残っていないとのことで、Google マップには表示されませんでした。




史跡の向かい側

(1)新選組隊士供養塔の建つ区域の向かい側の一角に関して。↑写真は、史跡の向かい側の一画です。この辺りに板橋刑場(馬捨場)があったということでしょうか?




板橋駅前

↑駅前広場から見た、その一画。




馬の串ん

↑角のマクドナルドの横には、馬肉料理の「馬の串ん」様があり、馬捨場があったかもしれない地に馬肉料理のお店があるのは、何かの因縁か?と思ってしまいました(汗)


しかし「馬捨場」という呼称は、なんとも酷すぎますね。お馬さんたち、可哀想・・・




次に、平尾一里塚が建っていたとされる「東京都板橋区板橋1丁目54」を調べると↑地図の赤い点線で囲まれた範囲でした。




駅前通り
↑ということで「近藤勇と新選組隊士供養塔」の向かい側、マクドナルドの前から北東に向かって坂を登って行くと・・・



旧中山道
↑直ぐにT字路に突き当たりましたが、そこが旧中山道でした。ここを左折すると・・・



板橋区板橋1丁目
↑こんな雰囲気。写真中央に、踏切を通過する埼京線が写っています。往時の中山道も、こんな道幅だったのでしょうか。

近藤勇と新選組隊士供養塔の所在地は「北区滝野川7丁目」でしたが、ここは板橋区なんですね。



板橋区板橋1丁目
↑写真撮影地点から埼京線の踏切までの、道右側の一帯が「板橋区板橋1丁目54」なのですが、御覧の通り商店や雑居ビルが隙間なく並んでいました。

一里塚は、街道沿いに建てられる物なので「平尾一里塚」は、写真右側のどこかに建っていたのでは?と思います。馬捨場は、その近くにあったのではないでしょうか・・・

それはともかく、この辺りはJR板橋駅の北側になり『(2)当時の中山道板橋宿手前、平尾一里塚付近の馬捨場(現在のJR板橋駅北側付近)』に合致すると感じました。

 

「新撰組九十九の謎」には「処刑場所は、現在の板橋駅東口の近藤の墓から200mほど離れた旧中山道沿いの馬捨場」とありましたが、埼京線踏切の辺りが墓から200mほど離れている感じでしょうか・・・




脇本陣豊田家

↑ということで、近藤先生が訊問を受けている間に幽閉されていた脇本陣豊田家跡など、板橋宿をブラブラ散策した探訪記は、このリンクから御覧いただけます。


                           
                        お城・史跡ランキング


        
関連記事
スポンサーサイト