武蔵と相模の史蹟探訪記

東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。

梶原景時一宮館址と梶原氏一族郎党(七士)の墓(神奈川県高座郡寒川町)探訪記

2022.12.07 (Wed)
梶原景時一宮館メイン写真
神奈川県高座郡寒川町の、梶原景時一宮館址と梶原氏一族郎党(七士)の墓を訪問しました。↑写真の梶原景時一宮館址には、一之宮天満宮(寒川町一之宮8丁目6−6)が鎮座していました。


※まず、史跡情報を神奈川県公式ホームページより以下に引用させて頂いて、把握しました。
鎌倉幕府創設に貢献した景時は、寒川町一之宮に館を構えた(『吾妻鏡』『新編相模国風土記稿』)とされ、館の西側には城之下(じょうのした)という地名も残されている。
 
寒川の館は、鎌倉の本宅とは別に、非常時への備えや情報収集のため、頼朝から景時に与えられた所領の一つに建てられたものと考えられている。
 
館は現存しないが、館址に建つ一之宮天満宮は、和歌をたしなむなど教養のあった景時の風雅を称え、里人が当時の館の物見台跡に創建したものといわれる。
 
2001年に行われた発掘調査では、館の堀跡らしき遺構が確認されたものの、直接梶原氏に関わるものかはわからず、今後の調査研究の対象とされている。
 
おすすめポイント
景時の住んでいた当時の名残とされる水路や、橋がかかっていた場所があり、当時の様子を考えながら楽しむことができる。
 
梶の木(浩宮徳仁親王殿下(今上陛下)御成記念に植えられた)や、天然記念物であるヒトツバタゴの木(犬山市から寄贈)といった、普段はなかなか見られない木を見ることもできる。


拝殿イメージ
↑こちらは東京都八王子市に鎮座する、梶原八幡神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)ですが、梶原景時が鶴岡八幡宮を勧請したものです。

自分は小学6年の時、校外授業で梶原八幡神社へ来て梶原景時について教わり、また図書館で義経の本を借りて読み「こいつのせいで義経さんが!」と腹を立てましたが(汗)今は景時さんには親しみを感じています(笑)

※地元では、梶原八幡神社を「梶原景時館跡」あるいは「梶原城」と呼ぶ方もいるようです。


梶原杉
↑梶原八幡神社参道には、建久二年に景時さんが植えた(お手植えかは不明)と伝わる「神木 梶原杉」の巨大な切り株があります。梶原杉は枯死し、昭和47年に伐採されたそうです。


梶原杉石碑
↑切り株の傍には「建久二年梶原景時植之 神木梶原杉」の石碑が建っています。

また、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、八王子城合戦では神社の裏山が北条軍(小田原北条氏)の砦(八幡社砦)として機能したようですが、豊臣軍の松平康國率いる信濃小諸城勢によって落とされたと伝わるようです。


御霊明神21
↑こちらは東京都八王子市に鎮座する、御霊明神(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)です。梶原八幡神社から徒歩15分くらいでしょうか。

この御霊明神(御霊神社とも)も、梶原氏が当地を領有していた鎌倉時代前後に、梶原氏が創建したと伝わっています。

というわけで、景時さんの館跡となれば、見ないわけにはいかないのであります。


新平家物語
↑ちなみに、吉川英治「新・平家物語14巻(全16巻)」で描かれている義経と景時の対立を改めて読んでみますと・・・
「さても悩みは知らぬ男かな。うらやましい梶原・・・」義経は苦笑した。
 
おなじ武門に生きても、梶原のようになれぬ自分を憐れとも思う。
このように、義経も景時さんを認めてはいる感じに描かれていました。実際はどうだったのか?分かりませんけどね・・・


寒川駅
↑前置きが長くなってしまいました(汗)なわけで、JR相模線の寒川駅へやって来たわけです。

相模線は、神奈川県茅ヶ崎市の「茅ケ崎駅」と相模原市緑区の「橋本駅」を結ぶJR東日本の路線ですが、寒川駅は茅ヶ崎駅から→北茅ヶ崎→香川→寒川と、3つ目でした。


↑梶原景時一宮館址(一之宮天満宮)は、神奈川県道44号伊勢原藤沢線の「一之宮小入口」交差点の角でした。

地図を拡大して頂くと「一宮館址案内板」と「梶原氏一族郎党(七士)の墓」が表示されます。併せて訪問しましたので、後述します。


駅前の風景
↑駅前の風景。周辺には閑静な住宅地が広がっていました。駅から南下して神奈川県道44号伊勢原藤沢線(旧大山街道)へ入って東へ歩き・・・


案内板
↑一宮館跡見学の前に、公民館の横に建つ「一宮館址案内板」で史跡情報を把握しました。


説明板メイン
↑解説文を以下に転記しました。

梶原景時と一宮館址
 
梶原平三景時(生年不明〜1200)は「鎌倉本體(ほんたい)の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
 
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭(おおば)氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
 
治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、八月二十四日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。
 
大庭景親(かげちか)率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの、討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
 
翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言葉を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。
 
以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめさ、まざまな重職に携わりました。
 
頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で御家人66人の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。
 
再度鎌倉に戻るものの、十二月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
 
正治二年一月二十一日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。
 
その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最後を遂げました。
 
幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。


説明板地図
↑年表部分を以下に転記しました。

梶原氏の足跡
 
治承四年(1180)
石橋山の合戦で敗退した頼朝を助ける
 
治承五年(1181)
土肥実平の仲介により頼朝に面謁。家臣として認知される。小御所御厩の地の奉行。
 
寿永一年(1182)
政子安産祈願奉幣使として二男景高が相模国一宮(寒川神社)に遣わされる。
 
寿永三年(1184)
宇治川の合戦。長男景季「名馬磨墨(するすみ)」にて佐々木高綱と先陣を争う。一ノ谷の合戦。平重衡を生け捕りにする。播磨国大山寺に大般若経典読料として田一町二段を寄進。
 
元暦一年(1184)
播磨・美作両国の守護に任ぜられる。
 
元暦二年(1185)
屋島の合戦。義経の奇襲により景時、合戦に遅参。壇ノ浦の合戦。義経と先陣を争う。
 
文治五年(1189)
衣川で討たれた義経の首実検を腰越で行う。奥州制圧軍軍勢着到奉行。一族あげて従軍、途中和歌を多く残す。新造の御厩別当。
 
建久一年(1190)
頼朝上洛の奉行。景時、景季、景高供奉して入京。
 
建久三年(1192)
頼朝征夷大将軍に就任、鎌倉幕府開府。
 
建久四年(1193)
富士の巻狩。一族あげて頼朝に供奉する。
 
建久六年(1195)
頼朝上洛の隋兵奉行
 
建久十年(1199)
頼朝死す。将軍頼家「吉書始」に十三宿老の一員として列席、侍所別当と傍注あり。
 
正治一年(1199)
景時公弾劾の署名を66人の御家人が提出、一宮に下向。
 
正治二年(1200)
一宮館を後に京を目指す。途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)にて合戦、一族滅亡。


遺構案内図
↑土塁伝承地、馬場伝承地、外堀伝承地、旧堀跡などの位置が『日本城郭大系』(新人物往来社)をもとに、地域の伝承などを書き加えた図が掲載されていました。

私有地内の遺構は確認しませんでしたが、一宮天満宮の「内堀伝承地」は確認しました。


昭和3年
↑絵葉書に使用された、昭和3年撮影の一之宮天満宮(梶原景時館跡)が載っていました。

神奈川県ホームページに「里人が当時の館の物見台跡に一之宮天満宮を創建」というのは、写真中央辺りを指していると感じました。


昭和30年の七士の墓
昭和30年頃、臼井彦太郎氏撮影による(伝)七士の墓の写真も載っていました。


鳥居を斜めから
↑一宮館址案内板から西へ少し進むと、一之宮天満宮の鳥居が旧大山街道(神奈川県道44号伊勢原藤沢線)に面して建っていました。


鳥居遠景
↑引いて撮ると、こんな感じ。逆光で酷い写真・・・


鳥居正面
↑正面からは、もろに逆光を喰らい(笑)こんな写真しか撮れませんでした。


道標
↑これまた逆光で酷い写真ですが、鳥居前に建つ「是より一宮明神道」の道標。


参道
↑一礼して鳥居を潜り、参道を進むと右側に説明板が建っていました。これまた逆光で、この有様(涙)


説明板
↑その説明板です。一宮館址案内板と重複する部分もありますが、転記しておきました。
梶原景時館跡
 
梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。
 
翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。
 
一宮(いちのみや)を所領としており、この地に館を構えたとされています。
 
図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。
 
天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
 
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。頼朝の死後、多くの家臣から嫉まれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。
 
その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。
 
一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
 
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったとされ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
 
平成二十一年三月
寒川町教育委員会


標柱と幟
↑説明板の先、参道左側に標柱あり。


標柱
↑参道右側には「浩宮徳仁親王殿下御成記念 昭和五十四年九月十一日」と、側面には「記念樹 梶の木」と刻まれた標柱が建っていました。


太鼓橋
↑標柱の先は、内堀跡に架かる小さな太鼓橋(?)。右側の木は、記念樹の梶の木と思われます。


梶原景時の幟
↑太鼓橋横には、幟が翻っていました。


内堀跡
↑太鼓橋の上から、右側の内堀跡を望むの図。


内堀跡
↑反対側から見ると、こんな感じ。境内との高低差は僅かでしたが、堀跡と言われれば、そんな感じがしました。


太鼓橋の左側
↑太鼓橋の上から左側を見ると、内堀跡が続いている雰囲気がありましたが、フェンスが張られていました。


内堀の跡
↑フェンスの上から見ると、確かに堀跡の雰囲気がありました。ここを歩いて進んでしまう人がいるのでフェンスが張られているのかもですね。


太鼓橋の先
↑太鼓橋の先には石灯籠や手水舎が並んでいました。この地点から右側を見ると・・・


説明板
↑内堀跡を背にして説明板が建っており、下に石材が幾つか並んでいました。説明文は以下に転記。
角落とし
 
両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落とし入れ、水流の調整をしたり、堰き止めなどする装置。
 
西側の産業往路沿いにあった相模川防水堰に設けられ、増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで補強して洪水から西町を守った。
 
平成28年3月


境内右側
↑角落とし説明板の先には土嚢とブランコがあり、その先に石碑が見えますが・・・


石碑
↑それがこちら。題額は「天満宮遺蹟碑」と思われます。碑文は、海軍中将正四位勲二等男爵肝付兼行篆額・・・と始まりますが、判読出来ない箇所が幾つかあり、全文転記は断念しました。


境内全景
↑石碑の近くから境内を見渡すの図。滑り台もあり、近所の子供達の遊び場でもあるんですね。木の柵で囲まれた砂場がありましたが、用途は不明です。


参道と社殿
↑参道へ戻り、社殿へ。


社殿全景
↑一之宮天満宮の社殿。社殿奥にはブランコが見え、その奥に末社が鎮座していました。


社殿正面
↑一之宮天満宮社殿。往時は、ここに物見台が建っていたんですね。Googleマップには「天満宮(城山地蔵堂跡)」と表示されます。天満宮の前には城山地蔵堂が建っていたということでしょうか・・・


社殿近景
↑賽銭を入れ、景時さんに思いを馳せ参拝。なんだかんだ言っても、景時さんを小学6年の頃から知ってるわけですからね(笑)

しかし、また逆光で写真に光彩が入ってしまいました(涙)


向拝
↑向拝部の雰囲気。


社殿近景
↑逆側から。


社殿横の大樹
↑社殿横の、幹の太い大樹が印象に残りました。冒頭に引用した「おすすめポイント」にある、天然記念物ヒトツバタゴの木(犬山市から寄贈)と思われます。


社殿横の銀杏
↑社殿横の銀杏も、印象に残りました。


祠の正面
↑お堂前から奥に見えた末社。何がお祀りされているか分かりませんが、祠の色からすると、お稲荷さんでしょうか?


社殿側面
↑境内の端から社殿を望むの図。この後、一宮館址を後にして梶原氏一族郎党(七士)の墓へ向かいました。


史跡入口
↑一宮館址から旧大山街道(神奈川県道44号伊勢原藤沢線)を東へ戻ると、駐車場のような敷地の隅に梶原景時の幟が立っていました。


↑一応、地図を貼っておきました。


入口看板
↑幟の横には「この奥右 梶原伝七士の墓」の標識が立っていました。この標識の背後には・・・


大きな石碑
↑大きな石碑が建っていましたが、題額には「浜降祭駐興記」とあり、梶原氏に関する物ではありませんでした。


浜降祭について、茅ヶ崎市公式ホームページより解説の一部を以下に引用させて頂きました。
茅ヶ崎に夏の到来を告げる暁の祭典「浜降祭」。毎年、7月第3月曜日(祝・海の日)に茅ヶ崎西浜海岸で開催されています。
 
夜明けとともに茅ヶ崎市と寒川町の各神社から、大小合わせて約40基の神輿が集まり、「どっこい、どっこい」という相州神輿独特の掛け声も勇ましく、砂浜狭しと乱舞する光景は壮観です。
 
昭和53年に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、57年には『かながわのまつり50選』にも選ばれています。


史跡遠景
↑駐車場らしき敷地を奥まで進んで右へ曲がると、住宅脇の細長い敷地に幟や供養塔が並んでいました。史跡の所在地は、神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目7−1となっています。


史跡周辺の情景
↑史跡の前は、こんな感じ。奥には農耕地が広がっており、長閑な雰囲気でした。


史跡全景
↑墓所手前に、大きな記念碑が建っていました。


記念碑
↑記念碑に接近。


プレート拡大
↑レリーフの下には「箙の梅(えびら の うめ)」というタイトルが刻まれていました。


(えびら)について、コトバンクの解説の一部を以下に引用させて頂いて、お勉強しました。
矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。矢をもたせる細長い背板の下に方立(ほうだて)と呼ぶ箱をつけ、箱の内側に筬(おさ)と呼ぶ簀子(すのこ)を入れ、これに鏃(やじり)をさしこむ。
 
背板を板にせずに枠にしたものを端手(はたて)といい、中を防己(つづらふじ)でかがって中縫苧(なかぬいそ)という。
 
端手の肩に矢を束ねて結ぶ緒をつけ、矢把(やたばね)の緒とする。葛箙、逆頬箙、竹箙、角箙、革箙、柳箙などの種類がある。


梶原景季レリーフ
↑こちらが、梶原源太景季(かじわら げんた かげすえ:梶原平三景時の長男)ですね。「箙の梅」のエピソードは・・・


新平家物語11
↑吉川英治「新・平家物語(全16巻)」第11巻「修羅山海経」の章には、以下のように描かれています。
■平家方は、木戸を小野坂の一箇所に限って、二重三重に逆茂木(さかもぎ)を引き堅固を極め、源氏勢が百騎、二百騎と馳け向かっても、みな撃退されるか川の半ばで矢風にくるまれてしまうだけだった。
 
■梶原景時は歩兵の小隊を十数組編成させ、川の上下から馳け渡らせ「敵の木戸柵を打ち壊せ!」と命令し、大混戦の様相となった。
 
■「今こそ、本軍をお渉しあるもよろしいでしょう」景時は、総大将の範頼に進めた。
 
■その時景時は、長男の源太景季が乱軍に紛れて行方知れずと聞き、次男の景高、三男の景家を引き連れ乱軍の中へ馳け入った。
 
■彼等は総当たりで敵を蹴散らし、敵に包囲されている源太景季を助け出した。
 
■この日、人目を引いたのは、源太景季が矢を打ち尽くして、箙に梅の花を差して奮戦した姿だった。
 
■この姿は、古歌の「吹く風を  何といひけん梅の花  散りくる時ぞ香は匂ひける」を思い合わせ・・・
 
■「古歌の意(こころ)を知ってか知らずか、東国勢の中にも風流な武者はいる」「花箙よ、花箙の源太よ」と敵の平家もいいはやしたという。
※古歌は『古今和歌集』の「吹く風を何いとひけむ梅の花 散りくるときそ香はまさりける」だと言う話も。

※この梶原父子の功名話は、後に梶原景時が権勢大いに振るったので、後日の人々が彼へのおもねりに一層誇張したものかもしれない、とのこと。いわゆる「盛った」って奴ですね。


記念碑の碑文
↑碑文は、以下に転記しました。

梶原源太景季は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。
 
寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで駿馬「磨墨」共に武名をあげる。
 
同年三月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙に挿し
 
かかれば花は散りけれど 匂いは袖にぞ残るらん
 
と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。
  
八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。 
 
平成二十年五月
梶原公顕彰会二十周年記念事業


新平家物語第10巻
↑梶原源太景季といえば、佐々木高綱との「宇治川の先陣争い」も有名ですね。


吉川英治「新・平家物語」第10巻「生唼・磨墨」の章から、以下に整理引用させて頂きました。
■寿永3年(1184)正月、頼朝は源(木曽)義仲と対立し、範頼と義経を近江国へ派遣。景時・景季父子はこれに従った。
 
■当時、頼朝秘蔵の名馬の中でも、生唼(いけずき)と磨墨(するすみ)の俊足を知らない者はいなかった。
 
■梶原源太景季は頼朝の前に出て「弓矢取る者の誉れとして、御料の生唼を拝領させてください。かならずや宇治川において先陣を勤めますれば」と厚かましくもねだってみた。
 
■頼朝は「いや、生唼はいけない。蒲冠者(かばのかじゃ:範頼)にさえ許されぬものを、そちに与えるわけにはゆかぬ。だが、生唼にも勝る磨墨を取らすであろう。手柄せよ、景季」と磨墨を与えた。
 
■翌朝、頼朝の元に佐々木高綱が別れを述べに来て「聞けば、梶原殿へ磨墨を賜りましたそうな。梶原殿に先陣を譲っては郷党どもに顔向けがなりません。生唼をそれがしに賜い、高綱に先陣を成させてください。もし高綱以外の者が先陣をなしたとお聞きの時は、高綱討ち死にせりと思し給わりませ」と申し出た。
 
■その言葉に動かされ、頼朝は生唼を与えてしまったが「範頼や景季にも断ったので、人に問われたら、そこは上手く濁しておけよ」と言い含めた。
 
■足柄、箱根を越え、梶原景季は駿河路の浮島ヶ原で一息入れていた時、目の前を生唼が通り過ぎ、驚いた。
 
■従者に「あれはそも、たれの料ぞ?」と尋ねると「佐々木高綱殿」と答えた。「あれほど懇願した生唼を、高綱に賜るとは・・・」と景季は憤慨した。
 
■景季は高綱を呼び止め「生唼は、上よりの御拝領か?」と尋ねると「いや、おゆるしなきゆえ、無断、お厩(うまや)より盗み出して来た」と心得ていた高綱は答えた。
 
■「後日のお咎めを何とする気ぞ!」と景季が問うと「御勘当もあらばあれ。手柄だに立てれば何とかなるであろう。もし御勘気が解けぬときは御辺からも、お取りなしを頼むぞ」と高綱。
 
■次第によっては、高綱と刺し違えるつもりだった景季は呆れ「厚かましい男よ!とかく正直者では、良い馬も持てぬことだの」と笑い、喧嘩にはならずに済んだ。

※景季は宇治川の先陣争いで、高綱から「馬の腹帯が緩んでいる」と言われ、直している間に高綱に先陣を許してしまったわけですが、そのお人好し加減に好感を持ちました。



墓全景
↑伝七士(梶原氏一族郎党)の墓全景。左隅に説明板が建っていました。


説明板
↑その説明板。以下に転記しました。

伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
 
この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(きよみがせき:静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
 
また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
 
なお、後ろの水路は当時の内堀の名残とも言われています。
 
平成二十一年三月
寒川町教育委員会
※背後の水路は良くあるU字溝で、内堀をイメージするのは難しい感じでした。


墓所全景
↑様々な形状の墓塔が、ズラッと並んでいました。


墓所右端
↑手前から奥に向かって掲載して行きます。墓塔には文字が刻まれているような形跡はあるものの、全く判読できませんでした。


墓塔群
↑歴史を感じました。


墓塔群
↑五輪塔ではない暮石もありました。


墓塔群
↑中央部分。


卒塔婆
↑卒塔婆には「龍泉院殿梶勝源公大居士」とありました。


墓塔群
↑中央部やや左。墓塔の中では、写真中央の五輪塔が最も高さがありました。


墓所左端
↑墓所左端。


墓所脇の幟
↑墓所横の幟も印象に残りました。鎌倉の梶原景時邸跡、梶原井戸、景時が大蔵御所で上総広常を斬り、血の付いた刀を洗った場所と伝わる梶原太刀洗水も、かならず訪問しようと思いました。

                         
                      お城・史跡ランキング


    
スポンサーサイト