武蔵と相模の史蹟探訪記

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河口山法蓮寺(東京都八王子市川口町)秋川街道神社仏閣巡り-22

2020.05.29 (Fri)
法蓮寺トップ画像
↑秋川街道神社仏閣巡り、連載22回目は東京都八王子市川口町2472番地の、河口山法蓮寺です。

河口山法蓮寺は、武田氏滅亡の際に松姫と共に逃れてきた仁科五郎信盛(盛信)の娘、小督姫(出家後は玉田尼)が身を寄せたようです。


↑地図を拡大して頂くと、法蓮寺の近くには八幡神社が2つ鎮座しており、併せて訪問しましたので次のページで紹介しています。


バス停
↑バスで訪問の場合、京王線または中央線の「八王子駅」もしくは中央線「西八王子駅」から、西東京バスの「武蔵五日市駅行き」か「上川霊園」行きに乗車し「川口小学校」バス停で下車、徒歩5分くらいです。


川中新橋
↑秋川街道の「川口中学校入口」交差点から北へ入り「川中新橋」で川口川を渡るの図。


川口小学校遠景
↑川中新橋の上から川口川の上流方向を見ると、川口小学校が見えました。


法蓮寺参道
↑川中新橋を渡ったら、あとは真っ直ぐ。法蓮寺は突き当たりに見える丘陵の麓です。


法蓮寺参道
↑川口中学校横を進むと、山門が見えました。


法蓮寺山門前
↑山門前に到着。右側には参拝者用駐車場の入口がありましたが、檀家さん専用かもしれません。


法蓮寺入口
↑斜めから。


法蓮寺山門
↑逆側から。


山門近景
↑由緒は、法蓮寺公式サイトより一部を以下に引用させて頂きました。
 
時宗 河口山 宝池院 法蓮寺は鎌倉時代、嘉元2年(1304年)遊行二祖他阿真教上人(たあしんきょうしょうにん)によって開山されたお寺です。
  
真教上人の頃より修行場として念仏道場が造られ、法蓮寺も河口道場と呼ばれ付近の地名にも道場として残っています。
  
中世の法蓮寺は地元の豪族である川口氏の庇護のもとにあったと本尊阿弥陀如来の体内銘に記されています。
  
戦国時代には、甲斐の武田氏の保護を受けていました。武田氏滅亡の折には、松姫と共に逃れてきた仁科五郎信盛(盛信と記される場合も有り)の娘、小督姫が身を寄せ、遊行上人の導きで出家し、玉田尼として生きていかれました。
  
江戸時代には徳川幕府より10石を拝領しました。それ以後、法蓮寺は歴代の遊行上人が、しばしば滞在されました。
  
その際は、近隣や宗派を越えた寺院からも多くの人々が集まり『桑都日記』には文政7年(1824年)の五日間の遊行上人の滞在で数万人に賦算(南無阿弥陀仏と書かれたお札を配る事)したと記されています。
  
明治時代になると、新政府と旧幕府軍との間で戦いがあり、八王子千人隊は新政府に恭順しますが、一部に反政府の人たちもおり八王子方と呼ばれたようです。
  
新政府と反政府との戦いで川口村出身の原子剛は戦死、楠正重は帰郷し道場を開き、近隣の若者に剣の指導をしていたようです。
  
明治25年、勝海舟の題字により原子剛の碑が、大正6年には天然理心流を継いだ小谷田洞水らにより楠正重の碑が建てられました。


八王子極楽寺トップ画像
↑こちらは、東京都八王子市大横町7-1の浄土宗の寺院、寳樹山極楽寺(訪問記は、このリンクから御覧いただけます)ですが・・・


玉田院墓所トップ画像
↑その墓地には、玉田院(小督姫)の墓所がありますが、小督姫が法蓮寺に住んでいたとは知りませんでした。以下に、極楽寺の玉田院墓説明板の内容を転記しました。
玉田院は俗名を小督(こごう)といい、武田信玄(晴信)の五男「仁科五郎盛信」の娘です。天正七年(1579)に盛信の居城である信濃の高遠城で生まれたと推定されます。
  
天正十年(1582)織田軍による甲州攻めの戦禍を避けるため、叔母である松姫らとともに高遠城から八王子へと逃れ、この地で暮らしました。
  
後に、関東の代官頭となり八王子に陣屋を構えた武田氏の遺臣、大久保石見守長安の庇護を受け、寺を寄贈されます。
  
まもなく小督は出家し、生壱尼(しょういちに)となりますが、病を得て、慶長十三年(1608)に29歳で歿しました。
  
その後、寺は小督の戒名である「玉田院光譽督室貞舜尼」にちなんで「玉田院」と呼ばれるようになりました。
  
当初、墓は玉田院にありましたが、元禄年間に廃寺となり荒れ果てていたのを仁科家の子孫である仁科資真(すけざね)が正徳五年(1715)に極楽寺へと改葬しました。

せっかくなので「仁科五郎信盛(盛信)」に関する Wikipedia の解説の一部も以下に引用して、お勉強しました。
仁科 盛信は、織田信長の甲州征伐に際し一族・重臣の逃亡や寝返りが続く中、高遠城において最後まで抵抗し、討死した。
  
霊松寺宛禁制や『甲乱記』では「信盛」とする用例があり、高遠入城を契機に改名した可能性が考えられている。長野県歌『信濃の国』でも「仁科の五郎信盛」と歌われている。
  
信玄時代
武田信玄の五男として生まれる。母は油川信守の娘で側室の油川夫人。異母兄に義信・勝頼、同母の弟妹に葛山信貞・松姫(織田信忠婚約者)・菊姫(上杉景勝正室)がいる。
  
信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。天文22年(1553年)に武田方に帰属し、安曇郡は仁科盛政支配期を経て直轄領化されている。(以下省略)


寺号標
↑山門脇の、大きな寺号標。


法蓮寺トップ画像
↑本堂は、大きくて立派でした。


本堂に接近
↑本堂に接近。


本堂近景
↑合掌礼拝。扁額は掛かっていませんでした。


本堂を斜めから
↑本堂を斜めから。


本堂近景
↑逆側からも。


法蓮寺7
↑屋根鬼飾の宗紋は・・・

法蓮寺8
折敷に三文字(おりじきに さんもじ)紋でした。法蓮寺は時宗で、この紋は時宗の宗紋でした。


時宗に関して、Wikipediaの解説を以下に引用させて頂いて、お勉強しました。
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は、神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称:遊行寺)。
  
時衆と時宗
「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗する意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。
  
「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。
  
思想
時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。
  
時宗(時衆)の語源は、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代で念仏する弟子達を「時衆」と呼んだ事が起源であるとされている。
  
宗紋
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍を輩出した伊予河野氏は代々大三島の大山祇神社を信奉・奉祀する一族で、一族の家紋は大山祇神社の神紋である「折敷に揺れ三文字」であった。
  
しかし河野通信が源頼朝挙兵に呼応し、その軍功を讃えられて頼朝・北条時政に次ぐ三番目の席次を充てられた際に置かれた折敷に「三」と書かれていた事から、以後家紋の三文字を「揺れ三文字」から一般的な「三文字」に替えたという。 
  
一遍は河野通信の孫となるので、宗紋は通信以来の「折敷に三文字」としている。


境内西側
↑境内西側を見ると、上野戦争で薩長軍と戦って戦死した八王子千人隊(旧称:八王子千人同心)隊士、原 子剛(はら・しごう)の碑がありました。


原子剛石碑
↑石碑は、かなり左に傾いていました。写真は、真っ直ぐ見えるように回転させています。


石碑拡大
↑碑文1行目に「枢密顧問官 正三位 勲一等 伯爵 勝安芳 題額」とありました。勝安芳は勝海舟ですね。2行目以降は変換できない旧漢字が多く、転記を断念しました(涙)
 

原子剛」と「楠正重」に関し、川口地区町会自治会連合会のページに記述がありましたので、一部を以下に引用させて頂きました。
原子剛」は、天然理心流の奥義を究める一方、槍法の腕が徳川家定公にも認められるなど、高い技術を持っていた。
  
楠正重」は天然理心流の指南免許を持ち、法蓮寺近くに住み道場を持った。楠家は武田家の家臣で、武田氏滅亡後は八王子に移り、八王子千人同心を世襲していた。
  
法蓮寺の裏山から尾根伝いに山を越え、約30分程で松崎和多五郎や松崎正作が住む戸吹の道場があり、時代は異なるも此処から通った二人であった。


境内の雰囲気
↑原君子剛墓碑銘石碑の前から本堂を望むの図。真っ黄色な銀杏の木が印象に残りました。


謎の施設
↑その銀杏の傍に、施錠された謎の扉あり。これは一体なんでしょうか・・・


石碑遠景
↑もう一人の天然理心流剣士、楠正重の石碑は、山門の近くに建っていました。


石碑拡大
↑楠正重翁寿蔵之碑、と題額は読めましたが・・・


石碑拡大
↑碑文の転記をする気が失せました(汗)

こちらも、川口地区町会自治会連合会のページの記述の一部を以下に引用させて頂きました。
千人同心は文久3年(1863)に徳川家茂将軍の上洛に長柄(ながえ)方・砲術方合わせて388人が上洛し、楠正重も八王子千人同心として供奉した。慶応2年(1866)第二次長州征伐に加わった。
  
官軍が江戸に迫る頃、彰義隊で奮戦したが敗れた。将軍慶喜公が駿府に下る折、一家を引き連れ沼津の士族屋敷開墾に従事した後、八王子川口に戻った。


法蓮寺11

↑天然理心流の流祖、近藤内蔵助から→三助→周助→近藤勇と続くのが宗家というか直系ですね。

※系譜図は「天然理心流伝系図 - ウェイバックマシン(2018年11月6日アーカイブ分)」というページより引用させて頂きました。
 
楠正重は三助の門人、松崎正作からの流れで「松崎系」と呼ばれるようです。石碑の碑文を書いたのは、楠正重の後を継いだ六代目指南の小谷田洞水とのこと。

小谷田洞水の御子孫の方のサイト「天然理心流と洞水」には、以下の記述があったので、引用させて頂きました。
碑文は洞水が得意の漢文で書いたものである。文面には、正重が維新の折に上野で官軍と戦った一節がある。
   
碑を建てる際に、この一節があるために建設が許可されなかった。このとき、洞水は門人幾人かを引き連れて、わざと貧乏剣士をよそおい、ボロな袴をつけ、ちんばの駒下駄をはいて検事局に出向いた。
  
玄関で「給仕、はきものに気をつけなさい」などといって堂々と入り、遂に洞水の理論によって「朝敵の文章の箇所に紙を貼って除幕するように」という事で許可になったそうである。

また、系譜図を隅から隅まで見てみましたが、どこにも「原子剛」の名は載っていないのはなぜでしょうか?川口地区町会自治会連合会のページには「戸吹道場へ通った」とあるので、楠正重と同じ松崎系だと思われるのですが…

それはともかく、法蓮寺は川口兵庫介、小督姫、天然理心流のお三方(原子剛、楠正重、小谷田洞水)と繋がりを持っていました。自分が神社仏閣巡りをする理由は、こうした歴史に触れるためです。

ちなみに、この法蓮寺は「FUNKY MONKEY BABYS(ファンキーモンキーベイビーズ、ファンモン)のDJケミカルの実家」であることは、地元では有名なようですね。


川口兵庫介館阯トップ画像
↑法蓮寺公式サイトの寺院紹介に「地元の豪族である川口氏」とありますが、近くには史蹟 川口兵庫介館趾(訪問記は、このリンクから御覧いただけます)の石碑があります。
 
館の遺構などは全く残っていませんが、興味のある方は寄られてみてはいかがでしょうか?


山門からの風景
↑法蓮寺山門から秋川街道方面を望むの図。川口兵庫介館阯は、赤丸の辺りです。


↑地図を貼っておきます。


最後に、川口町の地域情報と歴史を簡単に把握。Wikipedia の川口町のページより、以下にその一部を引用させて頂きました。
地理
八王子市北部の加住丘陵、南西部の川口丘陵にかかる丘陵地帯にあり、中央部を川口川が流れ、それに平行するように秋川街道が通る。
 
東で楢原町、西で上川町、南で諏訪町・上壱分方町・西寺方町、北で戸吹町・犬目町と隣接する。
 
沿革
武蔵七党の西党に属す川口氏が川口川流域(現在の八王子市川口町)を地盤する。
 
◎吾妻鏡には川口景季・景綱父子の活躍が記載。
 
◎文化・文政期(1804年から1829年)の地誌、『新編武蔵風土記稿』に川口村の記載がある。
 
◎1889年(明治22年)町村制施行により、神奈川県南多摩郡下川口村が上川口村、犬目村、楢原村、山入村が合併し川口村が成立する。
 
◎1955年(昭和30年)川口村が八王子市へ編入。

                          
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