武蔵と相模の史蹟探訪記

東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。

世田谷城跡(東京都世田谷区)探訪記

2024.04.14 (Sun)
世田谷城の空堀
↑室町幕府将軍足利家の支族、吉良(きら)氏の居城、東京都世田谷(せたがや)区に所在する世田谷城跡(東京都指定旧跡)を探訪しました。

吉良氏で最も有名なのは、何と言っても吉良義央(忠臣蔵の吉良上野介)でしょうか。

概要は、現地解説板の一部を以下に転記させて頂きました。
世田谷城跡
 
■吉良氏と世田谷城
世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。
 
貞治5年(1366)吉良治家(はるいえ)によって築城されたと言われていますが、定かではありません。
 
永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半には、この地に吉良氏が領地を持っていたことがわかっています。
 
応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。
 
また、15世紀後半には江戸城の太田道灌(おおた・どうかん)と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
 
その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係を持つようになりますが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(おゆみ:現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。
 
その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院(こうとくいん)は豪徳寺の前身といわれています。



↓まず、吉良氏についてお勉強しました。



清和源氏系図
↑第56代清和天皇の血を引く、清和源氏の略系図です。吉良氏は、八幡太郎こと源義家の孫で、足利氏の祖となる足利義康の子孫から別れた一族になります。



吉良氏
↑その足利義康を祖とする足利家略系図で、吉良氏を確認。『御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ』の意味が良く分かりますね。

ちなみにピンクの数字は歴代室町幕府の将軍で、ブルーの数字は歴代鎌倉公方です。鎌倉公方は基氏の子孫が世襲した、関東10か国を統治するために室町幕府の将軍が設置した鎌倉府の長官です。



吉良氏系図1
↑この吉良氏略系図は、Wikipediaの吉良氏情報から簡略化して書き起こした物で、点線は養子関係です。

吉良氏は「三河家」と「奥州家」に別れており、世田谷城を築城した吉良治家は奥州家。ちなみに、築城したのは吉良成高という説もあるようです。また、吉良義央(吉良上野介)をブルーで示しておきました。

以下に、吉良氏の Wikipedia情報の一部を以下に引用・整理させて頂きました。
■吉良氏は、足利義氏の長子 長氏(ながうじ)を祖とし、所領の三河国幡豆郡吉良荘から吉良を名乗った。
 
■室町時代には、足利一族中でも名門の地位を占めて幕府要職を歴任。三河吉良氏と奥州(武蔵)吉良氏に分かれ、三河吉良は西条・東条両家に分かれた。
  
■東条の三河吉良と奥州吉良(蒔田氏)は、徳川氏に仕えて江戸時代に高家となった。前者は忠臣蔵の吉良義央(吉良上野介)で著名。
 
■事件後、三河吉良本家は改易になったが、その分家と奥州吉良が明治維新まで残り、維新後、士族となった。


次に、奥州(武蔵)吉良氏について、Wikipedia情報の一部を以下に整理・引用させて頂きましたが、世田谷城を築城したのは吉良成高とありました。
■東条吉良氏の第3代吉良経家の子 貞家は、成良親王の廂番から興国6年(1345)奥州管領(奥州探題の前身)にまで出世し、陸奥多賀城に拠って足利政権の奥州統治の要となった。
 
■その後、観応の擾乱(かんのう・の・じょうらん)が勃発すると直義(足利尊氏の弟)方に属し、同じく奥州管領で尊氏方に属した畠山国氏を攻め滅ぼすが、その隙に勢力を伸張してきた南朝の北畠顕信に多賀城を攻め落とされた。
 
■以後、再び勢力を回復して正平7年3月(1352年4月)に多賀城を奪回、正平8年5月(1353年6月)には南朝方の拠点宇津峰城を陥落させ、奥州の南朝勢力を崩壊させた。しかしこの直後死去したとみられる。
 
■続く吉良満家が奥州管領に任命され、畠山国氏の子国詮や奥州総大将石塔義房の子義憲と争うこととなる。
 
■その間、中央で直義の殺害に成功した尊氏は、斯波家兼を新たな奥州管領として派遣したため、奥州は一時四管領並立となる。
 
■畠山氏、石塔氏を下した満家の死後、子の吉良持家が跡を継ぐが幼少のため、満家の叔父吉良貞経と満家の弟吉良治家が争った。
 
■貞治6年(1367)足利義詮(よしあきら;尊氏の子で室町幕府二代将軍)は、斯波直持と吉良貞経を奥州管領として治家を追討するように命じ、さらに奥州総大将として石橋棟義を派遣した。
 
■この結果、治家は敗れて逐電し、奥州吉良氏も往時の勢力を回復するに至らず、衰退の一途をたどる。
 
■滅亡の危機に瀕した奥州吉良氏だが、初代鎌倉公方の足利基氏(もとうじ)から招かれた吉良治家が上野国飽間郷に移住すると、徐々に勢力を回復し始める。
 
■鎌倉公方家に仕えた奥州吉良氏は、公方と同じ足利氏の流れをくむ家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受け「足利御一家衆」「無御盃衆」と称された。
 
吉良成高の代に武蔵国荏原郡世田谷(東京都世田谷区)に世田谷城を構え、同地に土着する。以後、拠点を変えるたびに「蒔田御所」「世田谷御所」「世田谷殿」と呼ばれた。



↓では、本編スタート!!



世田谷城跡の所在地は「東京都世田谷区豪徳寺(ごうとくじ)2丁目14」です。東急世田谷線の「宮の坂駅」から徒歩5分かかりませんでした。

東急世田谷線は、東京都世田谷区の「下高井戸(しも・たかいど)駅」と「三軒茶屋駅」を結ぶ東急電鉄の路線で、路線長は5kmです。



東急世田谷線
↑下高井戸駅で待機中の東急世田谷線(2輌編成)。ちなみに駅に券売機は無く、運賃(全区間一律160円/子供:80円)は、自動改札で現金または鉄道系ICカードで支払うシステムでした。



宮の坂駅
↑下高井戸駅からコトコト揺られて、宮の坂駅(無人駅)へやって来ました。ちなみに、途中の駅から乗車する場合は、運賃は乗車時に車内で支払うシステムでした。

※2024年4月1日から乗車方法が変更されており、詳細は世田谷線 乗り方の御案内(PDF)を御覧くださいませ。



世田谷八幡宮鳥居
↑駅の直ぐ西側には、寛治5年(1091)に八幡太郎こと源義家公が創建した、世田谷八幡宮が鎮座していました。

天文15年(1546)には世田谷城主の吉良頼貞(のち頼康と改名)が社殿を修築造営し、吉良領内第一の神社として尊崇されたとのこと。

また、世田谷八幡宮は「世田谷城の出城として機能していた」と伝わり、世田谷城跡を見学した後に探訪しました。※その探訪記は4月28日に公開いたします。



豪徳寺山門
↑駅から城山通りを西南へ進み、豪徳寺(ごうとくじ)の参道入口前を通過。豪徳寺は、吉良氏の後に世田谷を治めた彦根藩井伊家の菩提寺で・・・



井伊直弼墓塔
↑桜田門外で暗殺された井伊直弼(いい・なおすけ)の墓があることで有名ですね。※豪徳寺の探訪記は、来週(4月21日)公開いたします。

世田谷城は豪徳寺の東側に隣接しており、かつて吉良氏居館だった場所に豪徳寺が建っています。世田谷城と豪徳寺は、併せて探訪すべきでしょう。



世田谷城跡入口
↑豪徳寺参道入口の直ぐ先が、世田谷城跡の入口になっていました。



世田谷城跡入口
↑入口広場周辺の雰囲気。



世田谷城跡の解説板
↑解説板の城山通り側には世田谷城周辺の史跡が掲載されており、ページ最後で紹介します。



世田谷城跡の解説板
↑解説板反対側は城の情報でした。解説文は冒頭に転記させて頂きましたので、それ以外を以下に紹介します。



江戸名所図会
↑解説板掲載の『江戸名所図会』にみえる世田谷城跡。



世田谷城跡空撮
↑平成19年(2007)撮影の、世田谷城と豪徳寺周辺一帯。



城域推定図
↑世田谷城の城郭構造(推定)図。豪徳寺は「吉良氏の館」となっています。豪徳寺と世田谷城跡を合わせた範囲が「城域推定範囲」なんですね。



城郭構造
 
世田谷城は目黒川の支流、烏山(からすやま)川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。
 
また、城北方を通る滝坂道(たきさかみち)と東方の鎌倉道が交差する、交通の要衝にあたっています。
 
城郭の構造としては、中央に位置する郭(A)は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。
 
世田谷城跡公園には、土塁と堀の一部が残されています。
 
世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭(A)を中心として複雑に展開する8ヵ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭(A)〜郭(G)周辺を非常時の詰城(つめじろ)、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、この二つが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。



土層断面
↑堀の土層断面(上記城域範囲図の印の地点)



土塁
↑南西側から見た郭(C)の土塁
 


井戸
↑郭(A)で発掘された井戸。解説板は、以上です。



入口広場
↑解説板と遊具がある広場の西端から、東側を望むの図。奥へ進んで行くと・・・



謎の石積み
↑崖の斜面に謎の石積みあり。公園整備の際に造成されたものでしょうか・・・



入口の階段
↑ここから城へ上がりましたが、この右側にも・・・



右側の虎口
↑逆光を喰らった酷い写真ですが(汗)階段があり、どちらから登っても上で合流する構造になっていました。

虎口が左右にあって、丸馬出状になっていますが、往時からこうなっていたのでしょうか?



階段
↑左側の階段を上がると、直ぐ先は・・・



右カーブ
↑右へ180度曲がる、ヘアピンカーブになっており・・・



土橋
↑折り返すと道幅の狭い土橋状になっていて、左側を見下ろすと・・・



空堀
↑空堀があり、保育園の園児たちが元気よく走り回っていました。この土橋状の道と堀底とは、かなりの高度差がありました。



土橋と空堀
↑土橋を進むと、空堀が左へカーブしているのに気付きました。



土橋
↑さらに土橋を進むと、下から見えた謎の円形の石積みがありました。



謎の石積み
↑これは一体、何でしょう?木が生えてるし。解説板の縄張図を見てみると・・・



縄張図1
↑土塁となっています。往時、円形の土塁があったということでしょうか?それを崩れないように石積みで補強してあるのでしょうが、何の目的でこんな土塁があるのか分かりません。



土橋
↑これまた逆光を喰らった酷い写真ですが(汗)土塁の直ぐ先には階段があり・・・



堀底への階段
↑堀底へ降りて行くと、小さな橋が架かっていました。



小さな橋
↑橋というより、ただの通路のような雰囲気。往時、堀はもっと深かったのでしょうか・・・



堀底
↑橋の上から堀底を見ると、堀は前方で二股に別れていました。堀底を探索しようと思いましたが、御覧の通り撮影は憚れる雰囲気・・・
 
不審者として通報されたりしたら面倒なので(笑)堀底の探索は、園児達がいなくなってからにしました。



堀底
↑堀に架かる橋から堀底を城山通り方向へ進むと、解説板のある広場から堀底を通らずに城の外周に抜ける道があり、そこから振り返って堀底を望むの図。

堀底と曲輪がある高台との高低差、けっこうありますね。



城の外周路
↑ということで、城の外周に沿って前進。城の周囲は、立派な戸建て住宅が立ち並ぶ高級住宅地でした。



城の外周
↑またまた逆光で光彩が入った酷い写真ですが(汗)左へ曲がりながら外周路を進んで行くと・・・



城の外周路
↑広場が見えて来ました。



砦下の広場
↑レンタル自転車の駐輪場がある、広場に到着。



広場
↑広場は、赤丸の位置です。



曲輪の土塁
↑斜面の上に、それほど広くない曲輪が見えました。



解説板
↑広場にも、世田谷城阯公園の解説板あり。



石碑
↑解説板の横には石碑が建っており『世田ヶ谷城ハ室町時代足利管領ノ麾下ニテ権勢関東ニ響キシ吉良治部大輔治家ノ居城ナリ』と、出だしの部分は判読できたのですが、後半は判読不能な箇所が多く、全文転記は断念しました。
 


階段横の解説板
↑広場から曲輪へ上がる階段の横には、小さな解説板が立っていました。



冒頭に転記した解説板
↑その解説板。入口広場の解説と内容は重複しますが、以下に転記させて頂きました。
世田谷城跡 都指定旧跡
 
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に、吉良治家が居住したのに始まると伝える。
 
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。
 
はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると、関東管領上杉氏やその家宰・太田道灌(おおた・どうかん)に与力し、16世紀には北条氏(小田原北条氏・後北条氏)と結んだ。
 
北条氏と上杉氏の勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。
 
この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
 
世田谷城の壕(ほり)・土塁の構造は、天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。
 
平成14年11月
世田谷区教育委員会



↑上記に『吉良氏は関東管領上杉氏や太田道灌に与力し』とあるので・・・



上杉氏略系図
↑関東管領山内上杉氏を中心とする上杉家略系図を示しました。太田道灌(おおたどうかん)は、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい)です。

上部に「清子」とありますが、足利尊氏・直義兄弟の生母です。また、上杉謙信(長尾政虎)の名もありますね。

景虎は後北条氏(小田原北条氏)から謙信公の養子として迎えた三郎で、謙信公の死後、同じく養子の景勝と争って敗れ自害。子の道満丸も殺害されています(御館の乱:おたてのらん)。
 
系図には、吉良義央(吉良上野介)も表示されていますね。



後北条氏系図
↑こちらは前川實「決戦!八王子城」掲載の系図より書き起こさせて頂いた小田原北条氏(後北条氏)の略系図です。

上記解説板に『吉良氏は16世紀には北条氏と婚姻関係を結び』とありましたが、系図には「吉良頼康室」と「吉良氏朝室」が記載されていました。
 
また、上記に記載した御館の乱で敗れた「景虎」や、今川氏真妻の早川殿、武田勝頼室(桂姫)も記載されています。

ちなみに伊勢氏が「北条姓」を名乗ったのは、二代「氏綱」からのようですね。
 


曲輪
↑曲輪は直ぐ上。しかし、後回しにして・・・



外周の踏み跡
↑広場を後にして踏み跡を進み・・・



縄張図
↑赤線のルートで、堀底へ出てみました。



城の外周
↑城域の北東端から、空堀状の道を前進。



城の外周
↑石垣に沿って進むと・・・



封鎖されたフェンス
↑フェンスに突き当たり、その入口は施錠されて中へ入ることはできませんでしたが・・・



石垣とフェンスの隙間
↑石垣とフェンスの狭い隙間が通れそうだったので(笑)進んで行くと・・・



堀底
↑堀底に出て、奥に堀底に架かる小さな橋が見えました。さっきまで走り回っていた園児達は、すっかりいなくなっていました。

写真を撮りまくる怪しき男に恐れをなし、避難したのかもしれません(笑)



堀底の中心
↑堀底の中心。こうして見ると、大した深さではないように感じました。この位置で右側を見ると・・・



堀底
↑堀の突き当たりに、建物が見えました。



保育園と堀底
↑奥へ進んで行くと・・・



行き止まり
↑行き止まりでした。写真左側の建物は「豪徳寺ふくまねき保育園」のようです。さっきまで走り回っていた子供たちは、この園児だったんですね。

豪徳寺が経営している保育園か?と思ったのですが、そうではないようです。



招福猫児
余談ですが、↑こちらは豪徳寺の招福殿前に立つ招福猫(ふくまねきねこ)です。

豪徳寺には、井伊直政の息子で彦根藩2代藩主の井伊直孝が鷹狩りの折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷を逃れたという伝説が残っているんだとか。



堀底
↑最後は、堀底から・・・



小さな橋
↑先ほど見た、空堀に架かる小さな橋を渡って階段を上がり・・・



曲輪への道
↑道なりに進んで行くと・・・



曲輪
↑あっという間に、曲輪へ到着。



曲輪全景
↑ベンチが置かれているほかは、何もありませんでした。「ここは、物見台だったと考えられる」とブラタモリに出演した先生が仰っていましたね。



縄張図
↑小さな赤丸は空堀に架かる橋、大きな丸が曲輪です。



曲輪からの眺望
↑曲輪の端から東側を見下ろすの図。物見台と言っても、公道との高低差はこれしか無いのです。

しかし、往時は周囲は畑くらいしかなかったと思われ、かなり遠くまで見渡せたんでしょうね。



曲輪の外周路
↑次は、曲輪の西側から外周路へ。



外周路
↑この辺りが、城の最高地点でしょうか。



外周路
↑外周路を進みつつ空堀側を見ると・・・



空堀
↑こんな雰囲気。ここと堀底との高低差は、かなりあると感じました。以上で城の探索を終え、吉良氏館跡でもある豪徳寺へ向かう途中・・・



土塁の位置
↑豪徳寺参道の東側に位置する、赤丸の位置に所在する郭(A)と郭(C)の間の土塁と空堀を見に行きました。

この場所は、ブラタモリ「東京・世田谷〜なぜ人は世田谷に住みたくなる?〜」でタモリさんが訪れて、土塁を確認していました。



土塁への道
世田谷城から城山通りを豪徳寺へ向い、参道入口手前の路地を↑写真中央の集合住宅へ向かって坂を登りました。

目的の、郭(A)と郭(C)の間の土塁と空堀は、集合住宅の裏側になります。



枡形
↑路地は集合住宅の前で枡形(クランク状)になっており、クランクを抜けると・・・



土塁
↑路地左側の土の高まりは、豪徳寺参道と曲輪を隔てる土塁の名残りだと思いました。



土塁の遠景
↑路地から右(東)側を見ると、建物の間に土塁が見えました。ここは郭(A)になり、集合住宅(団地)は郭の跡に建っているわけです。

タモリさんは『強固な土塁と空堀で守られた、難攻不落の団地』と仰っていました(笑)



土塁の前
↑土塁に接近。土塁の先が空堀で、その先が世田谷城の郭(C)になりますね。



空堀
↑「居住者以外立入禁止」の看板が立っていましたが、周囲を見渡すと誰もいないので(汗)一瞬だけ土塁に上がらせて頂いて、郭(A)と郭(C)の間の空堀を確認しました。

堀はかなりの深さで、切岸状の斜面はかなりの急勾配。確かに、難攻不落の団地(笑)でした。



土塁と建物
↑右側(城山通り方面)を見ると、土塁の先端に建物が建っていて驚きました。ということで、素早く撮影を済ませて城山通りへ戻り、続けて豪徳寺を探訪しました。



↓最後に、世田谷城周辺の見所を紹介します。



世田谷城跡の解説板
↑解説板を、以下に転記させて頂きました。

周辺史跡等案内
 
(1)国史跡 彦根藩主 井伊家墓所(豪徳寺二丁目 豪徳寺内)
豪徳寺の前身は弘徳院(こうとくいん)と称し、万治2年(1659)に没した彦根藩主井伊直孝の菩提を弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。
 
その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息、子女らが埋葬されています。
 
北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303基を数えます。
 
 
(2)区史跡 吉良氏墓所(桜一丁目 勝光院内)
勝光院は、天正元年(1573)吉良氏朝が父頼康の菩提のため、吉良治家(はるいえ)が開基となって創建した龍鳳寺(りゅうほうじ)を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まるとされ、以後代々の菩提寺となっています。
 
墓所には、明暦3年(1657)に没した吉良義祇(よしまさ)以降、代々の墓が置かれています。
 
 
(3)世田谷八幡宮(宮坂一丁目)
天文15年(1546)吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。また、世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせ持っていたとも言われています。
 
 
(4)国重要文化財 大場家住宅主屋及び表門(都史跡 世田谷代官屋敷:世田谷一丁目) 
江戸時代、彦根藩世田谷領20ヵ村の大官職を努めた大場家の住宅で、敷地内には世田谷区立郷土資料館があります。
※(4)世田谷代官屋敷の代官を務めた大場氏は、元吉良氏の家老。世田谷城廃城後に帰農していたそうですが、彦根藩井伊家から代官に指名されたようです。



関連史跡地図
↑また周辺史跡の位置が記載された地図も掲載されていました。(1)から(4)は徒歩で一度に巡ることも可能ですが(4)世田谷代官屋敷は1kmほど離れています。



↓以下、自分が探訪した順に公開して行きます。



井伊直弼墓所
↑4月21日には、旧吉良氏居館であり井伊家墓所のある、豪徳寺の探訪記を公開します。



社殿正面
↑4月28日には、世田谷城の出城として機能した、世田谷八幡宮の探訪記を公開します。



吉良家墓所
↑5月5日には、吉良氏墓所がある勝光院を公開します。



代官屋敷表門
↑5月12日には、元吉良氏家老の大場氏が代官を務めた、世田谷代官屋敷の探訪記を紹介します。

大場氏は、石橋山の合戦で有名な大庭景親(おおば・かげちか)の末裔なんだとか。

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