武蔵と相模の史蹟探訪記

東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。

時宗総本山 遊行寺(神奈川県藤沢市)探訪記

2023.02.06 (Mon)
一遍上人像
踊り念仏で知られる一遍上人(いっぺんしょうにん)を宗祖とする、時宗(じしゅう)の総本山、神奈川県藤沢市西富1丁目8−1の遊行寺(藤澤山 無量光院 清浄光寺)を訪問しました。

遊行寺の縁起は、遊行寺公式サイトより、以下に引用させて頂きました。
当山は通称「遊行寺」の名で知られており、正式には藤澤山 無量光院 清浄光寺と号します。
 
開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代他阿呑海上人です。
 
その兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建されました。
 
創建以来、数度にわたる戦火、火災により堂宇は度々焼失し、その都度復興してきました。
 
永正10年(1513)兵火により全山を失った際は、当時、遊行21代他阿知蓮上人が滞在されていた駿河長善寺に本尊を移動します。その後、ようやく藤沢に再興されたのは、慶長12年(1607)のことです。
 
そして、寛永8年(1631)に江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺は、『時宗藤沢遊行末寺帳』を提出し、幕府から時宗総本山と認められます。
 
現在の遊行寺は、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍〔平成27年(2015)に10棟が国の登録有形文化財に登録〕や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場として、また市民の憩いの場として今日に至っています。
※遊行寺は、一遍上人が創建したわけではないんですね。


↑遊行寺は、国道467号線と神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線が交差する「藤沢橋」交差点の近くから北へ少し入った高台に位置していました。

小田急江ノ島線「藤沢本町(ふじさわほんまち)」駅から徒歩10〜15分くらいでしょうか。


私本太平記5
↑遊行寺を訪問したのは理由がありまして、吉川英治「私本太平記(全8巻)」第5巻に以下の描写があり、以前から行きたいと思っていました。
17日の夕(元弘3年:1333年の陰暦5月17日の夕方)海道の一駅、藤沢の宿では、小合戦があった。
 
しかし物見隊同士の遭遇戦に過ぎないもので、いつか、夜半の暗い雨となっていた。
 
雨は風を加え、そのなかを、先鋒、本軍、後続部隊まで、新田勢はぞくぞく藤沢の宿へこみ入って来た。
 
足利若御料(足利高氏[後に尊氏と改名]の息子、千寿王。後の室町幕府 第二代将軍、足利義詮)の紫の旗もまた、明け方、遊行寺の門に濡れ垂れた。
 
「ここの寺は、時宗だの」義貞は、これへ着いても休息をとる容子はない。
 
「されば、一遍上人の起こした藤沢道場とは、ここの由でございます」
鎌倉へ向かって攻め登る倒幕軍(新田・足利連合軍)を率いる新田義貞公が陣を置いたとあっては、行かないわけにはいきません。

ところが、遊行寺公式サイトには義貞公が陣を置いた話は記載が無く、ガッカリ。義貞公は藤沢宿の、どこに陣を置いたのでしょうか・・・


公園入口の看板
↑こちらは、遊行寺の次に訪問した村岡城址です。藤沢市観光公式ホームページには「元弘の変の時に新田義貞がこの城に布陣して、鎌倉へ突入して行った所」と記載がありました。※村岡城址の探訪記は、2月12日に公開します。

しかし、吉川英治先生は何かしらの史料から義貞公が遊行寺に陣を置いたと書いたのでは?何の根拠も無いのに書かないのでは?と思うんですけどね・・・


番組タイトル画面
↑こちらはネットで拾った画像ですが(汗)訪問したもう一つの理由は、某公共放送で2022年12月に放送された『踊って踊って大ブーム、一遍上人「鎌倉武士」を捨てた男』を見て、一遍上人に興味を持ったからです。

以下に、番組紹介文を公式サイトより引用させて頂きました。
蒙古襲来で全国が極度の緊張状態にあった鎌倉時代後期、念仏を唱えながら踊り狂う「踊り念仏」が大ブームとなった。
 
仕掛け人の一遍上人は有力御家人の一族に生まれたが、所領争いで親戚に命を奪われそうになり鎌倉武士の生きざまに絶望。すべてを捨てて無一物で全国を放浪、念仏札を配り歩いた。



山門前
↑自分は、神奈川県藤沢市本町4丁目5−21の浄土宗の寺院、八王山 摂取院 常光寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を訪問した後に遊行寺へ向かいましたが、遊行寺まで徒歩5分くらいだったでしょうか。


藤沢街道
↑常光寺から国道467号線へ出て、東(大船・鎌倉方面)へ歩きました。


蔵
↑途中、宿場を感じる建物があり、藤沢市ふじさわ宿交流館のサイトに以下の記載がありました。
桔梗屋
 
桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家です。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けています。
 
土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開きの塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝えています。
 
文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えています。


遊行寺橋遠景
↑桔梗屋の前を過ぎ、神奈川県道30号戸塚茅ヶ崎線と交差する「藤沢橋」交差点の手前を左折すると、赤い欄干の遊行寺橋が見えました。この橋の手前、右側には・・・


高札場跡
↑旧東海道 藤沢宿の史跡「遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡」がありました。解説板を以下に転記しました。
遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡
 
江戸からの東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。
 
橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。
 
左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていました。江の島弁財天の遥拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば「江の島道」です。
大鋸橋は「だいぎりばし」と読むようです。


遊行寺橋の絵
↑解説板に掲載されていた、藤沢市蔵の「遊行寺橋(旧大鋸橋)と高札場」歌川広重「東海道五十三次 藤沢(狂歌入り)」です。


遊行寺橋の橋名板
↑高札場跡の先、遊行寺橋の橋名板(きょうめいばん)。


赤い欄干の橋
↑浮世絵に描かれていた遊行寺橋を渡りました。


門前町の雰囲気
↑門前町という言葉が合いそうな、どこか懐かしい雰囲気の参道でした。


参道
↑旅情を感じつつ参道を進むと、前方に中世城郭の冠木門(かぶきもん)のような形状の門が見えました。


参道
↑訪問日の1月3日には、冠木門の周辺に多くの人がいるのが見え、まともに撮影できないだろうなと思いました。


ふじさわ宿交流館


藤沢宿の解説板
↑藤沢広小路に関する解説板が建っていました。解説は、以下に転記しました。
藤沢広小路
 
広小路とは、もともと「火除け地」を意味します。江戸の街では、たびたびの火災で多くの人家が消失したので、幕府は1657年の明暦の大火前から火除け地を計画していましたが、護持院の消失(1717)を契機に八代将軍徳川吉宗は、この地を火除け地とし、さらに江戸市中にとどまらず、各地の重要社寺などの門前にも設定しました。
 
藤沢広小路は、大鋸(だいぎり)広小路とも言われ、時宗総本山清浄光寺(しょうじょうこうじ:遊行寺)門前の商家が櫛比(しっぴ)していた場所に設けられました。
 
この場所は人々の往来も繁く、各地に知れ渡って、日本三大広小路の一つとも言われていました。また、東海道五十三次の中では「三曲がり」としても有名でした。
 
ふじさわ宿交流館は、この藤沢広小路の一角に建てられています。


山門
↑山門に接近。門は、遊行寺公式サイトによりますと惣門(そうもん)とのことです。


惣門
↑惣門について、以下に遊行寺公式サイトより、解説を引用させて頂きました。
大きな黒の冠木門(かぶきもん=門柱にぬきをかけたもの)が遊行寺の惣門(そうもん)で、右に「時宗総本山」 左に「清浄光寺」と彫り込んだ大きな木札がかかっています。今日では遊行寺の黒門と呼ばれています。


寺号標
↑山門前右側には、天守台のような基壇(きだん)の上に寺号標が建っていました。


山門前の灯篭
↑寺号標の裏側、山門前には、基壇の上に建つ青銅製の大きな灯篭が・・・


青銅製の巨大灯篭
↑一対、聳え立っていました。


山門近景
↑惣門に接近。門の中央には時宗の宗紋「折敷に三文字(おりじきに、さんもんじ)」が入っていました。


時宗の宗紋
↑こちらが「折敷に三文字」紋です。そもそも、時宗とはどんな宗派か?Wikipediaの解説を以下に引用させて頂いて、復習しました。
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は、神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称:遊行寺)
  
時衆と時宗
「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗する意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。
  
「時宗」と書かれるようになったのは、1633年(寛永10年)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。
  
思想
時宗では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。
  
時宗(時衆)の語源は、念仏を中国から伝えた善導大師が時間ごとに交代で念仏する弟子達を「時衆」と呼んだ事が起源であるとされている。
  
宗紋
折敷に三文字 - 宗内では「隅切り三」と呼ぶ。一遍を輩出した伊予河野氏は代々大三島の大山祇神社を信奉・奉祀する一族で、一族の家紋は大山祇神社の神紋である「折敷に揺れ三文字」であった。
  
しかし河野通信が源頼朝挙兵に呼応し、その軍功を讃えられて頼朝・北条時政に次ぐ三番目の席次を充てられた際に置かれた折敷に「三」と書かれていた事から、以後家紋の三文字を「揺れ三文字」から一般的な「三文字」に替えたという。 
  
一遍は河野通信の孫となるので、宗紋は通信以来の「折敷に三文字」としている。


惣門の額
↑惣門の額。


寺号額
↑惣門の寺号額。遊行寺の正式名称が「藤澤山 無量光院 清浄光寺」だとは、訪問日まで知りませんでした(恥)


板割浅太郎墓所看板
↑惣門を潜った先、左側に「板割浅太郎の墓」の看板あり。せっかくなので、見てみることにしました。


説明板
↑墓地隅に説明板あり。以下に転記しました。

国定忠治への忠義を貫く板割浅太郎(いたわりあさたろう)は、大正五年(1916)に刊行された平井晩村の小説『侠客忠治』(後に『国定忠治』に改名)に登場する「板割の浅沼」や、主題歌『赤城の子守唄』が話題となった昭和九年(1934)公開された映画『浅太郎赤城の唄』の登場人物として知られています。
 
真徳寺には忠治の元を離れた板割浅太郎の後日談が口承されています。
 
天保十三年(1842)に忠治がおこした勘助親子殺害事件と大戸関所破りの後、親分であった忠治と決別、無職渡世の足を洗い、時宗金台寺(長野県佐久市)住職である列外和尚の弟子となり列成と名を改めます。
 
後に遊行上人の導きにより藤沢の地に移り、時宗総本山遊行寺の堂司(堂守)を勤める事となります。
 
朝夕の鐘つきに始まり、札売りや参拝者へのお茶の接待、境内の清掃と、精進を重ね念仏三昧の日々を送り、叔父であるとされる勘助親子の菩提を弔うのです。
 
仏門に入り改心した姿が認められ、遊行寺塔頭である貞松院の住職を拝命したとされます。
 
以上の口承が昭和61年(1986)山本周五郎が刊行した『夜明けの辻』に収載された「遊行寺の浅」の元となったとされます。
 
後の列成和尚は、明治十三年(1880)に発生した藤沢宿大火により遊行寺が類焼すると、老骨に鞭打ち勧進僧となり、遊行寺復興の為に各地を巡って浄財を募り遊行上人の仏恩に報いたのです。
 
明治二十六年(1893)十二月三十日七十四歳にてその生涯を閉じたと伝えられています。
 
貞松院跡地に現存する暮石には「当院四十二世洞雲院弥阿列成和尚」と刻まれています。
 
赤門真徳寺住職


墓塔
↑板割浅太郎の墓塔。


遊行寺の参道
↑墓地から参道へ戻り、前進。参道に関する解説を、遊行寺公式サイトより以下に引用させて頂きました。
惣門から続く石段は、阿弥陀様の四十八願にたとえて、四十八段と呼ばれています。春には両脇の桜で花のトンネルとなり、訪れる人々の憩いを与えています。
  
平成19年(2007)に大改修が行われました。地元の皆様には、いろは四十八文字から「いろは坂」の愛称で親しまれています。


幟
↑参道(いろは坂)にズラッと並んだ、真っ赤な幟が印象に残りました。


真徳寺
↑坂を進むと右側に、鮮やかな朱色の門が印象的な、板割浅太郎墓塔の解説に「赤門真徳寺」とあった眞徳寺(赤門)がありました。以下に遊行寺公式サイトより、解説の一部を引用させて頂きました。
以前は、本山役僧が住職を務めており、講中の宿泊所でもありました。
 
そもそも当寺は真光院・栖徳院・善徳院・貞松院といった遊行寺の塔頭でした。
 
由緒沿革は不明ですが、4院はたびたび火災によって、いずれも困窮はなはだしく、ときには住職が退散することも少なくありませんでした。
 
真光院の住職が、栖徳院・善徳院を兼務することもあったといいます。


眞浄院の入口
↑その先、参道左側には眞浄院の入口がありました。以下に遊行寺公式サイトより、解説の一部を引用させて頂きました。
真浄院は遊行寺山内の筆頭寺院で、本山役僧が住職を務めていました。講中宿泊所でもありました。
  
歴代上人が法燈をつがれるときは、この寺院で旅装をとき、真浄院住職の先導により、清浄光寺に入山する由緒ある伝統的な慣例が、今日まで続けられています。
 
また上人が法燈をつがれた時だけではなく、遊行回向の旅から本山に帰って来た場合も同じような事が行われていました。
 
創建については、遊行寺の創建された正中2年と、ほぼ同時であったと伝えられています。
 
そのため開山は呑海上人で遊行寺と同じです。当寺に関する文献は、明治13年11月26日の大川屋よりの出火によって、遊行寺と共に焼失したことは惜しまれます。


門柱
↑眞浄院前を過ぎると、境内が見えました。


左側の門柱
↑境内入口には、折敷に三文字紋をあしらった・・・


右側の門柱
↑大きな門柱がありましたが、遊行寺公式サイトによりますと「山門跡」で、明治13年に焼失するまで銅葺屋根の仁王門が建っていたそうです。

仁王門には「藤沢山」と書かれた東山天皇の勅額(ちょくがく=天皇などが寺院に特に与える直筆の書で記された額)が掛かっていたそうですが、額は現在、本堂内にあるそうです。


境内の雑踏
↑2023年1月3日に訪問したのですが、箱根駅伝と初詣が重なって境内は大混雑。まともに本堂を撮影できず、後日再訪しました。

このページに掲載した写真は、2回の訪問で撮影した物が混在していますが、気にしないで下さい(笑)


参拝客でごった返す境内の情景
↑1月3日は、境内へ入った所から参拝順番待ちの行列が始まっており、串焼きなどのキッチンカーからは箱根駅伝の実況が流れ、ごった返す人で騒然とした雰囲気でしたが・・・


境内全景
↑再訪時には、殆ど人がいませんでした。


大銀杏
↑参道左側の大銀杏。遊行寺公式サイトより、解説を以下に引用させて頂きました。
樹齢700年(一説に500年)といわれ、藤沢市の天然記念物に指定されています。
 
昭和57年8月2日の台風により、約3分の1が折れてしまいましたが、現在は見事に繁茂しています。


境内と本堂
↑再訪時はガラ〜ンとしていて、1月3日の混雑が、何だか夢のようでした(笑)


一遍上人
↑参道右側には、一遍上人の銅像が建っていました。上人の略歴は、Wikipedia情報を元に、以下にザックリ整理しました。
■延応元年(1239年)伊予国(愛媛県)久米郡の豪族で鎌倉幕府有力御家人、河野氏の河野通広の第2子として生まれる。
 
■本家河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇について敗れ、祖父の河野通信が陸奥国(岩手県)に、伯父の河野通政と河野通末が信濃国(長野県)に配流され、没落した。
 
■10歳の時、母が死ぬと父の勧めで出家。 建長3年(1251)13歳になると大宰府に移り、10年以上にわたり浄土宗西山義を学んだ。
 
■弘長3年(1263)25歳の時、父の死を機に還俗して伊予に帰るが、所領争いで親族に殺されそうになって鎌倉武士の在り方に絶望し、文永8年(1271)32歳で再び出家。善光寺(長野県)や伊予の窪寺・岩屋寺で修行する。
 
■文永11年(1274)に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)や高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、念仏札を配り始める。
 
■建治3年(1277)入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる。
 
■その後各地を行脚し、弘安2年(1279)に伯父の通末が配流された信濃国を訪れた時、踊り念仏を始めた。
 
■弘安5年(1282)に鎌倉入りを図るも、拒絶される。弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り都の各地で踊り念仏を行ない、大勢の観客を集める。
 
■正応2年(1289)6月に阿波で発病、享年51歳(満50歳没)で15年半の遊行を終えた。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。
※踊り念仏に関して、一遍上人は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで、踊りたくなる嬉しさなのだ」と説いたそうです。

某公共放送の番組では、往時の絵図を元に舞踏家が踊りの再現を試みていましたが、盆踊りのような雰囲気の踊りでした。


遊行寺本堂
↑本堂について、遊行寺公式サイトより解説を以下に引用させて頂きました。
木造銅葺、木造としては東海道随一といわれています。関東大震災で倒壊したのち、昭和10年上棟、同12年に落成しました。
   
外陣長押に後光厳天皇の勅額「清浄光寺」を掲げています。阿弥陀如来坐像を本尊として安置しています。


参拝の行列
↑1月3日には、大勢の僧侶の読経の声が周囲に響き渡り、大香炉からは線香の煙が朦々と立ち登って、正月らしい風情でした。


1月3日の本堂前の情景
↑また3日は、本堂に「折敷に三文字」紋の幕や、仏教寺院であることを示す赤・白・紫・緑・黄色の五色幕(ごしきまく)が掛かっていました。


境内の情景
↑本堂は撮影できませんでしたが、1月3日も賑やかな雰囲気が味わえて訪問して良かったと思いました。


本堂近景
↑1月3日とは対照的な、静寂に包まれた本堂周辺。


向拝下
↑向拝の下が、広い!


本堂近景
↑木製の斜面を上がって・・・


向拝の下
↑合掌礼拝。


向拝下を斜めから撮影
↑海老虹梁も、巨大。


扁額
↑扁額。左端の文字が変換できませんでした(汗)


地蔵堂
↑本堂前、東側の地蔵堂。


酒井忠重五輪塔
↑地蔵堂の東側、酒井忠重五輪塔。解説は、遊行寺公式サイトより以下に引用させて頂きました。
この五輪塔には「寛文六(1666)丙午歳 光岳院殿従五位 前長州太守 鏡誉宗円大居士 酒井長門守忠重 九月十八日」と記されています。
 
忠重は、萬治3年(1660)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂(念仏堂)をも寄進しています。
 
遊行三十九代慈光上人は羽州最上(うしゅうもがみ)の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないでしょうか。
 
忠重は下総市川に蟄居中に不慮の死を遂げており、六地蔵供養塔・万日堂(念仏堂)の寄進者としてその遺骸を遊行寺に葬ったと考えられます。


六地蔵
↑酒井忠重五輪塔に隣接する、酒井忠重逆修六地蔵。解説は、遊行寺公式サイトより以下に引用させて頂きました。
銘文によれば萬治3年(1660)1月15日に酒井長門守忠重が施主となって、藤沢山の住持十七世他阿慈光(じこう)上人(遊行三十九代)の代に建立されました。
 
施主の酒井長門守忠重は出羽鶴岡城主酒井忠勝の弟で、逆修のために建立されたとされます。


俣野大権現
↑地蔵堂の南側、俣野(またの)大権現。遊行寺公式サイトより、以下に解説を引用させて頂きました。
埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。
 
貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られていました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されています。


中雀門遠景
↑本堂前は大勢の人で賑わっていましたが、本堂西側には殆ど人がいませんでした。門は、中雀門(ちゅうじゃくもん)です。


中雀門
↑精緻な彫刻が、印象的でした。


中雀門
↑斜めから。


中雀門の解説板
↑門横の解説板、以下に転記しました。

藤沢市指定重要文化財(建造物)
平成27年(2015)10月1日指定
 
中雀門
 
安政六年(1859)に紀伊大納言徳川治宝(はるとみ)が寄進、建立されました。
 
清浄光寺はたびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13年(1880)の藤沢宿大火の際にも焼失を免れた境内現存最古の建物です。
 
大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したものを引き起こして補修し、今に至っています。
 
向唐門(むこうからもん)造りで、高さ6.4m、幅は約2.7m(左右柱間内寸)です。
 
正面破風及び屋根大棟側面と鬼瓦に菊の御紋、下り棟鬼瓦に徳川家の葵紋が刻まれています。
 
勅使門として通常は閉門していますが、現在は遊行上人が出立帰山する時や、開山忌行列等の諸行事に合わせて開門されています。
 
平成29年(2017)3月
藤沢市教育委員会


寺務所入口
↑中雀門の西側、寺務所・僧堂入口の冠木門。


御番方
↑冠木門の先の、御番方(ごばんかた)です。遊行寺公式サイトより、解説を以下に引用させて頂きました。
本山の受付は近侍司寮(ごんじしりょう)と呼び、信徒・団参の方々は、この御番方(ごばんかた)と呼ばれる入口から入ります。
 
この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟されました。
 
関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊しましたが、すぐに倒壊当時の古材をもって再建されました。
 
なお、この建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物をそのまま使用したのではないかと言われています。


御番方
↑千鳥破風と唐破風が印象的な、御番方。


信徒会館
↑御番方の東側、放生池と大きな信徒会館。


放生池解説板
↑放生池の解説板。以下に転記しました。

放生池(ほうじょういけ)
 
この池は一名 放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば・・・
 
金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし
 
と記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。


放生池と本堂
↑放生池の畔から、本堂を望むの図。


鐘楼
↑本堂西側の、鐘楼。その脇に・・・


歴代御廟入口
↑歴代御廟所の入口がありました。宇賀神社も鎮座しており、行こうか?と思ったのですが規制されているような気がして、行きませんでした。行けば良かったかも・・・

帰宅後、遊行寺公式サイトで「新田満純公墓碑」が在ったと知りました(汗)ただ、墓碑の写真は掲載されているものの、その在り処が記載されておらず、知っていても見付けられなかったかもしれません。

以下に、墓碑の解説を公式サイトより引用しました。
上杉禅秀方の将軍であった岩松(新田)満純の死骸が、戦乱の終わった直後の応永24年(1417)1月14日に遊行寺に葬られました。「法龍天用」と刻んだ石塔があったといいます。
 
新田25代俊純は、自分の代では満純の墓を再建できずその子忠純男爵によって、大正7年(1916)8月に再建できました。
 
墓石は御影石で正面に「南無阿弥陀仏」とあり、裏面に「新田十代裔新田治部大輔満純之墓」と彫られ、右側面に「応永廿四年閏五月十三日」と誌されています。
 
また、満純の墓のかたわらに墓碣があります。その碑文には「新田満純公は、先祖は清和天皇から出た新田義貞の末裔である。
  
義貞は亡くなった祖父で亡父、義宗の母の里は、岩松氏で、兄義顕は勤王のために死んだ。
 
満純公は幼児だったので、母方の岩松満国のもとに逃れ、満国の嫡男満氏が早世したので、養子となって岩松を名乗った。のち、義宗の嫡男貞方の死によって新田氏岩松氏が合流して新田岩松氏と称した。
 
応永23年(1416)妻の里、上杉氏憲(禅秀)とともに足利持氏と戦ったが敗れ、部下を卒いて岩松郷へ帰った。
 
持氏は部将を派遣してこれを討たしめた。満純は武蔵国入間川で合戦をしたが、ついに捕らえられ、鎌倉龍の口で斬られた。応永24年閏5月13日のことである。
 
遊行寺の太空上人は、満純の遺骸を持氏に願い求めこれを境内に葬った。満純の長子家純は諸国をさすらい、のち美濃国土岐氏を頼る。
  
さらに、朝廷および足利六代義教将軍の命を受けて、鎌倉征伐に向かった。足利持氏を滅亡させたのである。その功によって、新田氏旧領を与えられた。
 
これ以降代々新田荘に住み、明治年間、新田俊純は満純公の墓に詣で、これを再建したいと思ったが、墓があれ果てていて、墓石まで分からず俊純は心配しながらも忠純に墓石の再建を申し付けた。そして大正七年八月完成した」(原文は漢文)と誌されています。


船玉神社
周辺の見どころ情報です。↑こちらは、遊行寺近くの「舩玉(ふなたま)神社」で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で紹介されたようです。


説明板
↑現地由緒書きを、以下に転記しておきます。

舩玉神社
 
祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です。神社前の道は鎌倉街道で腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。
 
昔は江ノ島から、この付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三代将軍・源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したところと伝えられています。
 
ここは大鋸(だいぎり)という地名ですが「大鋸引き」という職人たちが住んで舟大工や玉縄城の御用などをしていたといわれています。
 
藤稲荷(ふじいなり)大明神
 
この道10メートル先を右折階段を登り、山の上にあります藤稲荷は、大鋸の御幣山(おんべやま)の西のはずれにある。藤沢宿最古の稲荷だそうです。
 
船久保町内会自治会


藤稲荷大明神
↑小高い丘の上に鎮座する、藤稲荷大明神です。


↑遊行寺惣門から舩玉神社まで、徒歩5分かからなかったと思います。遊行寺へ訪れた際、寄られてみるのも良いかもですね。

                           
                        神社・仏閣ランキング


        
スポンサーサイト



 | HOME |  Next »